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壁 (新潮文庫)Amazon: 壁 (新潮文庫)

この作品は一本の長編ではなく、ふたつの中編といくつかの短編から成る作品集である。収録作品は以下の通り。

  • 石川淳による序章
  • 第一部 S・カルマ氏の犯罪
  • 第二部 バベルの塔の狸
  • 第三部 赤い繭
    • 赤い繭
    • 洪水
    • 魔法のチョーク
    • 事業

いくつかの作品が収められているといっても、そのコンセプトは常に一貫している。そのコンセプトとは表題でもある『壁』だ。壁の性質や壁の概念が作品のあらゆる部分に散りばめられている。これはわたしが言うまでもなく、石川淳氏が序章でそのものズバリ述べている。

この作品を通じて、考えることは壁の性質であり、壁の概念である。壁とは何か? どういうものであるのか? 作品世界を旅するうちに、わたしは壁とは物体でもなく、物質でもなく、特定の性質を有する概念であることに気づいた。その性質とは、人間を阻む性質である。人間は壁のこちら側や壁の向こう側については考えるけれど、壁そのものについてはあまり考えないのではないか?とわたしは思う。

そして、『壁』というものを理解することは、すなわち難解であると言われる安部公房氏の作品を理解するということである。

第一部 S・カルマ氏の犯罪

目が覚めたら、名前が分かりませんでした。

この話はそこから始まる。他の行動様式等の記憶はあるのに、主人公は自分を表す固有名詞を持っていない。そして固有名詞は固有名詞として一人歩きしていく。固有名詞を持たない実体と、実体を持たない固有名詞の奇妙な掛け合い。

この話の中で、わたしは『論理』や『言葉』の限界のようなものを感じた。ここでは微妙に通常と順序が逆転しているようにも思うのだが、対応する固有名詞を有していないものは、我々の世界では表すことができないのである。通常ならば、表すべき現象があるから、固有名詞が生まれるはずなのだが……。

そしてその状況をあざ笑うかのように登場する、法学者に数学者に哲学者。いずれも現象から象徴(モデル)を抽出して、論理として仮想の世界で操るプロたちである。この奇妙な事態を、奇妙な論理で解決しようとする彼らはとても滑稽で哀れである。

この話は、概念の冒険だ。概念を壊し、最終的に概念的な部分を目指す。それなのに終着点は概念をひっくり返すことであるし。話の構造が何重にもなっていて、非常に面白かった。こういうのを昔から人は、矛盾とかパラドックスとか、いろいろな言葉で呼ぶのであろうな、と思った。

第二部 バベルの棟の狸

ここで安部氏が描いているのは、因果が逆転してしまった世界である。通常我々は、過去のある出来事があったから現在の状態があると考える。しかし、ここで描かれているのは、絶対的な支配力を持つ非常識な現在の状態であり、過去はその現在の状態によって規定されるという世界だ。

この中で、主人公は獣に影を喰われてしまう。そのせいで主人公は透明人間になってしまった。主人公は考える。どうして俺は透明になったのか、と。そして彼が思い至ったのは、影がなくなったから透明になったという結論であった。物体である彼が透明だから影がない(原因→結果)のではなく、影がなくなったから彼は透明になってしまった(結果→原因)のだ。このように、この作品中では原因は結果に遅れて明らかになる。存在するのは圧倒的な結果であり、原因はいつも後から遅れてついてくるのだ。とても不思議な感覚である。

だけど、よく日常で遭遇する感覚でもある。我々は完全に未来を予測できない。そしてとりあえず行動を起こし、結果から原因に遡ってものごとを説明する。この中で描かれているのは、そういう当たり前のことが強調されすぎてしまった状態だ。どれだけ妙に感じられても、変えることのできない現実がある、そんな恐ろしさを描いているような印象を受けた。

第一部、第二部を読むと、ドラえもんが過去に干渉してはいけない理由がよく分かる。

第三部 赤い繭

この部分は、4本の短編からなる。この4本はいずれも著者がその作家生活の初期に書いたものであり、長編ばかりを読みなれていたわたしには、少々異質な作品たちであった。これらを一言で表すならば『残酷なショート・ショート』という言葉がしっくりとくる。

異質な作品群ではあるのだけど、その中にはやはり彼独特の、シビアな現実や不条理さが描かれているわけで。それぞれとても面白かった。個人的なお気に入りは『魔法のチョーク』。イソップ童話的な、示唆に飛んだ短編である。

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