Home > 書籍 > 森博嗣の世界を感覚的に語る

森博嗣の世界を感覚的に語る

  • 2007-02-25 (日)
  • Category: 書籍
  • 4360 Views
  • add to hatena hatena.comment 0 user add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user
  • Print Print

タイトル通り、 森博嗣 氏の小説を、勝手に自分の感覚になぞらえて語ってみようと思いまする。ネタバレしまくりなので未読の方はご注意をば。しかもアホみたいに長いのでこれまたご注意をば。

私が一番好きなのが、S&Mシリーズで、作品同士リンクしてはいるものの、これはこれでひとつの閉じた世界を形成していると思っているので、S&Mシリーズ、それから四季シリーズについてのみ、触れようと思います。主に犀川の思考システムについて…。

コミック版に感じた妙な既視感

最初に読んだのは、実はコミック版だった。

コミック版の『F』を手に取ったときの四季と萌絵との会話のシーン。外界から完全に遮断された空間での二人だけの会話。時間も距離も全く意味を成さない空間。互いに疎通が取れているのか一人で呟いているだけなのか、どちらともつかないような会話。

それからたくさんの犀川が一度に起動するシーン。身体などすでに超越しているようなあの感覚。感覚的に入ってきたそれらに既視感を覚えた。

極大に始まり、発散に終わる 〜 自己を解放する、という御伽噺

最初に書かれたのは『F』ではなかったそうだが、やはり最初に出版されるべきは『F』だったと思う。だって、読者が読んだときに感じるであろう違和感が、極大になるのが『F』であるから。同時に、違和感が最大に凝縮されているのも『F』。その他の作品では、その違和感の表現は抑え気味になる。

また、S&Mシリーズが『有限と微小のパン』で閉じたのもまた必然だと思う。印象としてはね、違和感が無限大に至ったところで、抑圧されていた緊張がほどけて発散した、という感じ。身体と精神という繋がりによってもたらされる違和感が無限大になる。そう感じたのが、四季と犀川のダーク・ルームのシーン。四季は身体を超えた向こう側に行ってしまった。犀川は身体の側に戻ってきた。

ところで『有限と微小のパン』は、主観的な記憶や認識というものがいかに役に立たないかを示した作品だ。萌絵の体験した、見ているものが全て何者かの手によって意図的に作られて、見せられているものだ、ということを理解したときのあの感じ。四季の言う《虚構》。

『今生きている現実の全てが、作られた虚構だとしたら』という仮定の前に、緊張を憶える。四季が萌絵に与えた御伽話は、半分くらいは現実に起こりうる可能性を含む。我々の認識するこの世界は、我々の認識による観測結果である。科学による結果さえも、観測手法が含む誤差故に、真の真実にはたどり着けない。我々が主観的に見ている『自分にとっての世界』は、バイアスのかかった我々の意識によって観測された結果。それらが交差することはあっても、完全に一致することは多分、ない。だから我々は世界を、誤差もひっくるめてその共通部分として認識するしかない。

わぁぁ、ものすごい勢いで脱線してますね。
こういう感覚は、映画『マトリックス』や、高校の教科書に載っている『胡蝶の夢』でも味わえるです。

森氏の文章に救われた私 〜 解離のコントロール感

というわけで本題に入りましょう。ここで語るべきは登場人物の思考様式。

私は、森氏の文章に救われた。自分自身がまさに、シリーズを通して描かれている違和感__解離1 という現象によりもたらされる違和感__に悩まされていたからである。自分の行動も思考もどこか遠くから眺めていだけとしか感じられず、喜怒哀楽の表現をしているのが自分ではない誰かとしか思えず、時には自分が操り人形であるかのような感覚…数えあげればきりがない。長い間、違和感の集合に悩まされながら生きてきた。

『F』の冒頭で、最初に自分の悩まされていた違和感をイメージ的に捉えたものを、言語としてインプットされた。白い、外界と完全に隔絶された空間。その中に萌絵が一人でいる。四季は画面の向こう側のどこかにいる。そこには存在しないのに、コンタクトは成立する。時間も距離も意味を成さない。この隔絶された感じ、それでいて繋がっているという矛盾が、自分の持つ違和感に似ていると思って安心した。

自分の持つ感覚に対応する言語 (もしくはメタファー = 隠喩) があるというのは非常に楽だ。得体の知れないもの__形を持たないものは怖い。形を持ったものは、形を持たないものよりも怖くない。ただそれだけで救われた。四季に言わせれば、それは《退化》らしいけれど、四季は退化という現象自体を否定してはいない。私は勝手に、退化することで進化する生命も存在すると考えている。

「そう、言語による単純化こそ、人間のノスタルジィの起源」真賀田四季は頷いた。
「記号化はすなわち退化。単細胞への生命への逆行です」
『有限と微小のパン』

ところで、森氏は、四季は空間、時間とも解離していると『四季〜春』の冒頭ではっきりと書いている。

空間、そして時間。
それらのいずれとも、彼女は乖離していた。
『四季〜春』

四季と同様に、犀川の思考も、作品世界から解離している。犀川は、思考するとき、自分自身を遠くに突き放す。身体の感覚、論理、そういうものを全部自分から切り離して、遠くからそれを観察し、観察結果に基づいて考察する。まるで人形師が、マリオネットを操るようかのように、だ。『F』の最後の部分で、犀川が、暴れている原始の犀川を内に感じつつ、主体としてのコントロールを手放さないという描写がある。このときの犀川は、感覚としては解離を起こしていないように見える。原始の犀川と、外面の犀川は、確かに解離しているのだろうし、外にある世界と内にある世界、両方を見てはいるのだろうけども。

このような状況になることは、犀川にはよくあった。何も原因がないのに、何故かはらはらする。汗が出る。鼓動が、呼吸が速度を増す。今にも自分が叫び出すのではないか、という予感。今にも自分が走り出すのではないか、という予感。ものすごい形相をした自分が自覚され、内側で興奮している。
子供のときからよくあることだった。
しかし、対処の仕方は心得ている。表向きのコントロールに神経を集中すればよい。ゆっくりと手を挙げる。ゆっくりと呼吸を整える。そして、ゆっくりとしゃべる。
__(中略)__
じっと待っていれば、この状態からはやがて解放される。
『全てがFになる』

これを最初に読んだとき、ああ、こういう風にコントロールしたらよいのか、と直感した。そのときの直感は、半分は正解で半分は間違いだったけどね。頭だけではコントロールが効かないから。自分の意識内に何かあるのを感じた上で、身体をコントロールをしない何の意味もない。意識内のものを見ないままに、外面のコントロールだけをすることは、感情の抑圧に他ならず、抑圧されたものは無意識のどこかで歪みをもたらし、余計に酷い結果をもたらすから。

戻ってきた萌絵 〜 外傷体験からの回復

抑圧と言えば、萌絵の封印された記憶が連想される。

「貴女は、ご両親が亡くなった日のことを覚えています?」真賀田女史は質問を続ける。
「ええ、よく覚えています」
「貴女は、泣きましたか?」
「はい」
「事故は夜でしたね?」
「そうです、空港に両親を迎えにいきました。事故は着陸の寸前に起こりました」
「犀川先生もいたのですね?」
「はい」
「西之園さん。貴女は、その日、どんな服装でしたか?」
「覚えていません」そう答えてから、萌絵は思い出そうとした。
『全てがFになる』

『F』の頃は、萌絵の思考様式は、犀川同様、完全にマリオネットを操る人形師の如くだった。だが『F』で両親の飛行機事故の夜の、自分の行動の記憶を思い出し、その後作品が進むにつれ、感情に翻弄されることが多くなっていく。この現象は非常に興味深い。それは、人形師がマリオネットに乗り移り、そしてそのまま魂を持った人形 (ヒトガタ) __つまり人間になれるのなら、私自身もいつかこの違和感から抜け出せるのかという希望。

この描写は、心的外傷を負った萌絵が、自身を守るために外傷に関する行動や感情を封じ込めていたものを、言葉で誘導して意識上に浮上させ、解消したという感じで描かれている。

「貴女のご両親は優しかった?」女が聞いた。
その言葉は、萌絵の胸に突き刺さるように響く。
「ご両親が亡くなった夜を……、思い出してごらんなさい」
「な、何故?」それだけしか言えない。
鼓動はさらに速くなり、息をするのに抵抗がある。
「貴女は、どんな服を着ていましたか?」
躰がぞくっとして、萌絵は震えた。
目を閉じる。
心臓の音だけが聞こえる。
酸素が不足しているのだろうか。
どうして、こんなに息が……。
「わ、私は……、紫色のワンピースでした」萌絵はそれを思いだした。
しかし、気が遠くなる。
  __ (中略)__
「あれ以来……紫色の服を着たことはないわ。ワンピースも着なくなった……。忘れていたわ。犀川先生に謝らなくちゃいけない……。忘れていました……」
『すべてがFになる』

ここで萌絵は大きな変容を経験したに違いない。それにより、感情を感情のまま、感じ、翻弄されるようになったのだろう。

変容と言えば、『夏のレプリカ』に印象的な描写がある。萌絵ではなく、友人の簑沢杜萌の変容についてだが、二人がチェスをしているシーン、そして、その後の会話。

「チェスで、萌絵に勝ったのは初めてだよ」杜萌は言った。
「ええ、最高の試合だった」萌絵は頷いた。彼女はもう泣いていない。「貴女はクイーンもルークも、初めから捨てるつもりだったのね? それに気がついたときには、もう遅かったわ」
「いつもの萌絵なら気がついたはず。今日は、貴女、どうかしちゃってるんだ」
「いいえ、杜萌にはそんなことできるわけがない」萌絵は首を振った。「貴女はこの二ヶ月で変わったのよ。だから……」
「だから?」
『夏のレプリカ』

この作品、タイトル自体がトリックを表現していたことに唖然とした。

さて、話を戻そう。VRカートでの、女と萌絵との会話とよく似た現象を、つい最近体験した。自律訓練法の練習をしていて、何か分からないけど『嫌なもの』に触れてしまったときに感じた、心臓が飛び跳ねるような緊張は、萌絵が過去の記憶に触れたときに感じた緊張と、同質のものではないだろうか。VRカートというバーチャルな世界の中では、意識が身体から完全に解放された状態になるのではないか?

そう考えると、私自身、自ら身体を手放すことによって、向こう側に埋もれているあの『嫌なもの』を掘り出して、言語かイメージの形に翻訳し、こちら側に持って帰ってくることができるのではないか? そうすれば、あるいは…等、と考えたりする。四季のようなしっかりしたガイドがいないので、よーやらんけどね。

森作品の危険 〜 無意識下から意識上へ

もうね、森氏の作品を語るときにはいつもいつも「危険だ危険だ」言ってるのだけども。森氏の文体は、とても硬質だ。理系的な言い回し、と言っていいのかしら…。

ちょいと脱線するが、個人的には、理系だからこそ、遊び心があるのだと思うが。研究は人類の最大のひまつぶし、どこかにそう書いてあったような気がするが、どこに書いてあったか思い出せない。犀川の台詞で、かなり近いものは見つけたんだけども。

「僕も、それを後悔しているよ。理学部と工学部は虚学と実学だってよく言うけどね。なんてったって、楽しいのは虚の方だものね」
『笑わない数学者』

↓ドンピシャな台詞を発見したので、以下引用部に示します。最初にこの記事を書いたときに、数学の話をしたのはこれが残っていたのかもしれません。

「犀川先生なら、どう答えられますか?」国枝桃子が無表情で尋ねた。「学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」
「何の役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す」犀川はすぐに答えた。「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないということを考えるんですからね」
『冷たい密室と博士たち』

高校の時、数学は大嫌いだった。それが今、少し時間ができたら数学の問題を解いている。何故? 今、意味を為さないから面白いのだ。ゲームと一緒。現実の問題と結びついてしまった瞬間、タイムリミットとか価値とか名誉とか、よけいな重りがまとわりついてくる。無駄なことほど楽しい、それは真理だと思う。もちろん、無駄じゃないことの中にも、楽しいことはあるのだけど。

さて、話は戻ります。文章の構成が稚拙で申し訳ない。頭の中に浮かんだもの、垂れ流し状態なのです、本当に。構成なんぞないに等しい。思考の流れをそのまま辿って頂ければ幸い。

森氏の硬質な文体のために、彼の表現はほぼ一意に定義され、読者は森氏やシリーズ中に描かれた人物の思考を、容易にトレースできる。容易にトレースできるということは、それだけ読者の意識に与える影響が大きいと言うことでもある。私はそれが恐ろしい。

シリーズを通じて、犀川は、自分自身がマリオネットであるかのように、遠く突き放し、考え、行動する。主観的に見るのではなく、常に遠くから客観的に自分を見ている。あくまで自然に、日常的に客観視しているように描かれている。普通は__と言っても、私が元々そっち側にいる人間2 なので、本当に普通というのがどういうことか、はっきりとは断言できないけど、__自分は自分自身であるということを、疑いを持たず当たり前に受け入れ、生きているんじゃないのか? だから、いくら論理的な思考をしたとしても、自分自身をあまりにも遠くに突き放す視点というものを、人は持ち得ないと思うのだよね。

ところが、シリーズ中で犀川のような思考様式が存在することに触れ、文章でトレースするという作業により、その思考様式をイメージ化して自分に植え付けてしまうのだよね。それまでは違和感とも思わなかったはずなのに、イメージが自分の中に存在することで、ああこれは例のあれだ、という認識を重ねていく。感覚とイメージは互いにフィードバックし合っているから、その違和感は徐々に大きくなっていくのではないか? そして、小説を読んだことが原因で、『身体はマリオネット、精神は人形師』的な認識が形成され、自我の把握が困難になって苦しむことになったりはしないのか?3

私は森氏の小説の表現力は素晴らしいと思っている。それは彼が研究者であると共に、モデラーでもあるということに由来しているのではなかろうか。観察眼は、研究対象を観察することによって培われたのだろうし、空間の認識がしっかりしていないと、ジオラマなんて作りようがないとも思うし。

私は、森氏であれば、この分析力と洞察を以て、認識や認知の分野で、片手間にでも論文くらい書けそうだと思った。もちろん、論文というものには科学的根拠が必要だから、それを集めるという膨大な作業が発生するだろうし、現実的には難しいのだろうけども、森氏の小説はそれをやってもいいくらいに素晴らしいものだと思った。だけど、素晴らしい故に、娯楽として売るには危険な代物なんだ。これは、前に『四季シリーズ』の感想を書いたときにも同じような事を言ってる。あの時の自分は、完全には言葉にしきれていなかったようだが。

同時にこの人の小説は危険だとも言った。この感覚が癖になるのは、この感覚が伝染していくのは、やばい。概念って言うやつは、言葉によって伝染するし、言語化された概念ってやつは人の意識の上で展開され、疑似体験される。私は春夏秋冬の四季を通じて、またしても現実という感覚が揺らぐという体験をした。

自分は、しっかりとこっち側に戻ってきたと思っていたけれど、やはり少しのイメージ的な刺激で、簡単に誘発されてしまうらしい。もっと根を張らねば!

危険な『ペルソナ』たち

最初に、犀川が常にペルソナを使っているのを匂わせたのがこのシーン。

「え?」犀川は自分の意識に上ってきた原色の異様な発想に身震いがした。
犀川の中の一番計算の速い人格が浮上する。その人格が一番原始的でもある。彼は、怒鳴り散らしながら計算を始めた。原始的な彼は、いつも感情を隠さない。
『全てがFになる』

それからコミック版『F』の中に、たくさんの犀川が一度に起動するシーンがある。弱い本体を守るために存在するペルソナたちだ。あのシーンの印象は、強烈だった。原作『F』では、それは四季が犀川に加えた分析として描かれている。

「貴方が、あの海の中で、おっしゃったことが気に入ったからよ……。水の中では煙草が吸えないって、おっしゃった。私に予測できない発言でした。理由はそれだけです。犀川先生、貴方……、頭の回転が遅いけど、指向性が卓越している。判断力が弱いけど、客観性は抜群だわ。たぶん、まだ何人かをお持ちなのでしょう? いろいろな犀川先生がいらっしゃるはずよ。貴方の回転の遅さは、貴方の中にいる人格の独立性に起因しているし、判断力の弱さは、その人格の勢力が均衡しているからです。でも……、その独立性が優れた客観力を作った。勢力の均衡が指向の方向性に対する鋭敏さを生むのです。貴方は、いくつもの目を持っている。奇跡的に混ざっていない。いえ、本当の貴方を守るために、他の貴方が作られたのね。貴方の構造は……私によく似ています」
『全てがFになる』

それから、『有限と微小のパン』の中でも。

犀川の核心の人格が、今にも飛び出してきそうだった。
彼が飛び出そうとするのを、周りの犀川が抑えている。
何故、抑制する必要があるのか、
誰も知らない。
誰もが知っている。
『有限と微小のパン』

これらのシーン、本当に危ないと思ったのだよ。人間誰しも、多面性は持っているし、主観としての視点と、客観としての幾つかの視点は持っているものだと思う。ただ、その視点や多面性が、作中では「人格」として表現されているのが問題。作中の犀川は、複数人いるように描かれている。並列する複数の思考ではなく、ひとつ (もしかしたら複数) の意識を共有する、複数の人格。

また、犀川という人物は、非常に頭のよい人物として描かれている (真賀田四季は、作中で天才だと明らかに書かれているし、人によっては犀川を天才と表現する人もいる)。人は、自分にない能力を持っていない人間に憧れるものだ。大人になると、人は単純になる。子供のうちに自らの能力とその限界を知り、自分自身と今触れることのできる目の前のリアルしか見ないようになる。だから自分の構造と、犀川の構造を、切り離して考えることができる。そんな大人に対しては、森氏の世界は危険ではない。

だけど、子供はどうだろう? 子供という存在は自由だ。自分の限界をまだ知らない。好奇心もある。吸収力もある。そして、現実と空想の境界が、曖昧な中に生きている4 。そんな子供が、これを読んだとしたら、もしくは、大人であっても、子供的な精神構造を有する人間がこれを読んだとしたら、彼らの頭の中で現実の経験と、小説の中の疑似体験が混同され、再構築され、彼らの意識に何らかの変容をもたらす可能性は考えられないか? (真賀田四季が少女の頃に、他人を取り込み、その意識の構造を変化させていったように)。

そして、この前の節、「森作品の危険 〜 無意識下から意識上へ」で書いたような、身体と精神の解離の顕在化を経て、いつの間にか、一人の人形師と複数のマリオネットとして生きるようになっているかも知れない。そしてもし、マリオネットが独立した意志を持ち、人形師に反乱を起こしたらどうする? 大袈裟な想像だと、思うかも知れない。けれど、イメージと行動との相互のフィードバックというのは、その人を変容させてしまうほどに強い作用を持つものなのだ。

個人的には、四季や犀川の持つ、あんな完全な人格システムは、有り得ないと思う。対立的な概念が、ばらばらに存在にするようであって、相補的。ひとつの意識の中でも、そんなバランスのいい位置を見つけるのは難しいのに。

ネットワーク社会が恐ろしい

森氏の世界を語るにおいて、外せないのがネットワークという概念だ。

「私がどこにいるのか、おききになりたいのね?」真賀田四季は萌絵を見て、少女のように首を傾げる。
「そうです。真賀田博士」萌絵ははっきりとした口調で言った。「このダーク・ルームの中じゃないことは分かっています。博士、今、どこにいるのですか?」
「貴女の前にいます」
「現実の世界における、博士の躰の位置です」
「私は、その世界では、もう存在しません」
「え?」
真賀田四季は、テーブルから手を離して、ゆっくりとドアの方に歩いた。
彼女はそこで振り返り、萌絵を見る。
四季は優しく微笑んだ。
「西之園さん。私は、とっくに死んでいるのよ」
『有限と微小のパン』

ネットワークの世界においては、時間も、空間も、意味を為さない。ここでこうやって文章を書いている現在の私を、今、そこで文章を読んでいるあなたが観測する__過去の事象を観察したり、遠隔地の事象を観察したりということが普通に行われている。多分、そのことに何の違和感も持っていないとは思うが、これは身体という物理的な拘束から解き放たれた結果だ。もし身体的な拘束があったとしたら、遠隔地の事象をここで観察することはできないし、過去の事象は、過去の事象によって起こった結果を観察し、想像するしかできない。

また、私自身を、あなたは観察しない。あなたが観察しているのは。文章を通してあなたの中に形成された「TsumuRi」という人物だ。もし名前が一文字でも違ったら、あなたの中に形成される人物は、全く違う人物になっているかも知れない。あなたの中に形成された「TsumuRi」と、私自身は、一致するだろうか?

私はここでは、極力フェイクを交えず、その時の自分から流れ出すままに文章を綴っているから、ある程度の一致は見られるだろうが、完全な一致は得られないだろう。また、もし私が完全に「誰かを装って」ここで文章を書いているとしたら__さすがに無意識の部分はコントロールできないだろうから、ある程度は私が反映されるとは思うが、__あなたの中に形成された「TsumuRi」とここにいる私が一致するわけがない。

しかも、この「TsumuRi」という仮の名前を捨ててしまえば、あなたは、私が生きているのか死んでいるのかさえも分からなくなる。私が「ここで生きている」と声をあげない限りは。

ネットワークの中では、時間も、空間も、最悪の場合、自分が見ているもの全てが、本当の現実からかけ離れている。インターネットが一般化したのが1990年代後半だから、今までメインのユーザーは大人だったが、ADSL等の高速回線やコンピュータ教育の普及で、子供がどんどん流入してきている。私は、自由な精神を持つ子供が、自分自身のリアルから好きなときに離れて、仮想現実に浸かることが、本当に恐ろしいと感じる。

人は、現実に根を張らなければ、生きていけない。

森氏の作品の中で、それを一番知っているのは、時間も空間も超越して自由になりたがっていた四季ではないだろうか。『四季シリーズ』を読むと、幼い頃彼女は周囲を完全に見下して、頭脳の中に他人を取り込み、そこで閉じていたように思えるが、年齢を重ねるにつれ、現実と接点を持つことに興味を見いだしているように見える。

「西之園さん。私は、とっくに死んでいるのよ」
『有限と微小のパン』

四季は、そう言った。それは現実に対して心を閉ざしていた彼女が死んで、現実に根を下ろした彼女が生まれたということかもしれない……と、私が思いたいだけなのかもしれないけど。

ところで、今更に前提条件

さて、現時点で私、Gシリーズを読んでおりません。

『F』を読んだ時点では、S&Mシリーズを全部読むことになるとは思っていなかったし、Vシリーズを読むとも思っていなかったし、その後出版された『四季』に至っては手を出してはいけない!と思っていました。何故読んでしまったのかは、これまで上にずらずらと書いてきた通り (すっげぇ疲れた)。

森氏の小説は、その世界観や生命に対する認識に引きずられるので、とても疲れます。これを書いている途中、引用のために手持ちの文庫を全部引っ張りだし、ページをめくっていたけど、めくるだけで後頭部が疲れました。それを逐次言語化するのに、前頭部も疲れました。私にとって、森氏の小説はミステリではなく、哲学書に近いものがあり、その思想やイメージに触れるために読んでいると言っても、過言ではないでしょう。

以上の前提で書いたのが、上のやたら長い文章です。なのでミステリとしての評価は一切加えてません。以上、悪しからずご了承をば。

Footnotes

行頭の数字は本文中の注釈番号に対応さしてます。

  1. 解離という現象はスペクトル状で、病的でないものは日常の中で起こっている。何かに没頭しているときに時間を妙に短く感じたり、白昼夢を見ているようなアレだ。非常時以外に発現されるべきでない重度の解離は、記憶の完全な喪失等、日常生活に大きく影響をもたらすレベルのものであることを追記しておく。 Back
  2. つまり、最初の方、森氏の文章に救われた私 〜 乖離のコントロール感の部分で書いたような状態で生きてきた人間、ということ。 Back
  3. 要は、私が森氏の小説により利点を得たのとは、逆の現象が起こるということだ Back
  4. 頭の中で想像したことなのか、実際に起こったことか分からなくなるほど現実感が希薄な時代がありました。また、どうして自分の思考は見えるのに、他人の思考は見えないのだろうという疑問を抱いたまま大人になりました。身体と意識の繋がりは希薄で、少しのことで間違ってしまうかもしれないといつも怖がっていました。大丈夫だっつの。 Back

ランキングに参加したりなんかもしてます☆ Click ☆
fc2人気blogランキングブログランキング・にほんブログ村へ

ReTweet Twitterで つぶやいてみる?

関連記事:こちらも一緒にどうぞ☆

Comments:0

Comment Form
Remember personal info

Trackbacks:0

Trackback URL

Home > 書籍 > 森博嗣の世界を感覚的に語る

Search
Categories
Archives
Pick Up
TsumuRiさんの読書メーター

この日記のはてなブックマーク数
あわせて読みたいブログパーツ
-->

ジオターゲティング
アクセスランキング
Ads

Return to page top

-->