小説を読んだ人しか楽しめないであろう、『ドグラ・マグラ』感想文第2弾。数日間、これが続くと思われるので、興味のない方はスルーを。
さて、前回のおしまいに呉青秀の話が出たところで、今日は呉青秀を掘り下げてみる。
呉青秀は本当に狂ったのか?
呉青秀が妻を殺害した理由は、作中で説明されている。正木博士曰く、呉青秀は変態性欲の命ずるがままに行動したという。これには、フロイトの影響を強く感じる。また、胎児にとって生まれ落ちるまでに見る前世の夢や、生まれ落ちるその瞬間こそが苦しみといった考え方も、夢分析や前世記憶の思想を受けているのだろう。
正木博士は、呉青秀が変態性欲のせいで狂ったと説明をしたが、本当に彼は狂ったのだろうか?私は、彼が非常に冷静でまともな判断力を持っているように思った。呉青秀が、妻の死体だけでは飽きたらず、他の犠牲者を探し始めたあと、彼は非常に合理的に行動しているように見えるからだ。徐々に、目的達成までの障害が少なく、足のつきにくい手段を選択するようになっているように思う。初めは生きている美女を殺害しようと企てたが、無理なので婦女子の新葬を狙うようになった (が、結局墓場で出くわした女性を襲ったことで、足が着いてしまうわけだが)。
したがって、合理的な行動を取るための判断が可能であるという点では、彼はまったく正常なのだ。ただし、欲求の方向が、ごく稀な欲求 (すなわち死体への変態性欲) だった。そのため彼は村人から「おかしい」と思われ、迫害されることになるのである。大多数の普通の人間から見ると、彼は確かに狂っているのである。
このへんの判断は、本当にデリケートな問題だ。現代においては、言うまでもなく殺人は悪である。しかし戦争においては、大量に敵国の兵士を殺せば、英雄として扱われる。それを非道であると責められるのは、我々が当事者ではないからだ。なんかねー、このあたりの、我々が無邪気に感じている当たり前感に、ものすごいジレンマを感じるのよ。上手いこと言葉に出来てないけども。
死体に対する愛着というモチーフ
いや、まったく、この小説は、最初に書いた通り、数年前チャカポコのあたりで挫折していたのだけど、呉青秀のあたりは、何故かものすごいデジャヴを感じた。文体と舞台の共通点で、中島敦の山月記を想像したのだろうか。人が正気を失い、獣に返っていくという点でも共通している。時代もほぼ同じだし。
ところで、正木博士は、呉青秀の死体への執着を、変態性欲というどことなく (というか明らかに) ネガティブな印象の言葉で否定しているけども、死体に対する愛着というモチーフは、それほど特殊なものではないと思う。
芥川龍之介の作品の中にも、死体を描くことに執着してしまった絵師の話がある (芥川龍之介の作品には、死をモチーフにしたものが多い)。西洋の童話に出てくる、眠っているお姫様は、動かない死体をモチーフに、子ども向けに書き直したものであるという説もある。そういえば、グリム童話には。青髭なる死体愛好家が登場する。現代においても、死体への執着が原因と思われる事件が、起こっているという事実もある。佐川一政、宮崎勤、等々…
我々は、死体は尊いものだと考えており、粗末に扱ったり、壊したりしてはならないという観念を、当たり前に抱いている。が、色々と突き詰めてみると、死体をどうこうしたいという欲求は、心の奥深くに、非常に強くあるのではないか?そして、死体をどうこうする快は、抗い難い快なのではないだろうか。ゆえに死に纏わるものは、穢れとして禁忌とされ、破るものは厳罰を科せられたのではないかと思うのだよ。
またしても、続く。
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