前のエントリ書いてる途中で、いつの間にか人間関係不適合感を払拭する方法論になっていたのに気付いたw あまりに適当に書きすぎて脱線した結果、いつの間にか非コミュ論ではなく脱・非コミュ論と化した。非コミュ から拡張しすぎた結果だと思うんだが、長すぎる。ところで、自分には不適合的部分と、適合的部分がある。単純に、受け容れられ体験をしたかしてないかだけの差だと思う。
のっけから言い切ってしまうけど、非コミュ論についてはあんまり詳しいことは知らない<言及するのにそれはないだろ…
やっぱりそれはないと思ったので、キーワードから適当に読んでみた。長文が多くて目が滑りまくったのは秘密だ。そもそもキーワードで目が滑った。ねえ何でみんなこんな難しい言葉でしゃべれるのさ? あとはてなダイアリ幾つか読んだ。ざっと流し読みだけど、程度の差こそあれ、感じているものは似ているような気がした。とりあえず、キーワードだけささっと貼っておくから適当に見るよろし。
他者との社会的関係性が能動的・受動的に関わらず、絶たれている、もしくは殆ど繋がっていない状態・その状態に陥っている者を指す。主に、当事者内における他者に対する心理的な態度・姿勢を定義したもの
オレ理論グループ・キーワード非コミュ
とりあえずこっちの方が、字面から受けるイメージに近いからこっちについて、ね。能力の問題というより「感じ」の問題な気がするんだよな、個人的に。個人的にはこれに「コミュニケーション不全による不適合感・劣等感・閉塞感・生きづらさ」あたりを加えたい。本人が悩んでいなかったら何の問題もないから。
はてな界隈にはリアルの人間関係で不適合感を抱えている人がこんなに多く存在するのか!と衝撃を受けた。その割りに、そういう人たちってリアルでは表面化しないよね。少なくとも私の知る範囲では、私以上にアレな人ってあまり見ないわ。みんな、必死で外面を整えつつ生きているのか。大変だな。それともネットが引きこもり親和性高いから、よく見かけるのかしら。というわけでみんな頑張れ<人ごとのように言うけどオマエガナー
けどまぁ、本来の意味での不適合と、選択的な不適合はちょっと違うと思うんだよな。
- 本来の意味での不適合:人間関係をどうしていいのか《全く》分からないから、不適合にならざるを得なかった、もしくは不適合に追い込まれてしまった。周囲は全員、言葉も共通感覚もないエイリアン的な感じ。
- 選択的な不適合:人間関係のあれこれは漠然と分かるけど、あえて不適合的な距離、行動を選択した。
私はたぶん後者であるし、世の中で人間関係に不適合感を抱えている人はたいてい後者じゃないだろか。うまくやろうと思って必死に頑張れば、多分なんとかできるだけのポテンシャルは持っている。だが断る! or 遠慮させて下さい……辛いです……そんなノリ? (希望的観測だが)。後者の頭の中にはこういう式があるような気がする。
- うまくやりたい=極力相手に嫌な気持ちを与えたくない。いい気持ちでいてほしい
これを実践するためには、自己にペルソナの下で生きることを課さねばならないし、酷く疲れてしまう。他人に嫌な気持ちを与え、拒絶され、結果自分が傷つく。だから後者を選ぶ。ある意味とても自分に正直。
私はそんな感じで、だから選択的な不適合という自分的な適応の形を取った。
なんだろうな、私のようなタイプは怯えすぎだと思うのよね。うまくやらなくていいのだよ。うまくやろうと気を遣ったところで、「気の使い方が気に食わん」とか言うやつは絶対いるし、そもそも誰に対してもうまくいくことなんて絶対にない。一部のマニア受けすればそれでよいのである。というわけで素っ裸の自分で体当たりだ! (精神的にであって、物理的にではないから気をつけれ)。しかし素の自分で近づいた時に拒絶されるのは、ペルソナを使いまくった上で拒絶されるよりずっと傷つくという怖れも分かる。
受け容れられた経験が少ない人は、自然と「人間とは受け容れてくれないもの」という認識を獲得してしまうし、受け容れられず拒絶された経験もあったりして、すでに傷ついてる。結果、拒絶を避けるために人間自体を避ける。が、人間自体を避けていたら受容される機会をも失っう。拒絶されるのが怖いなら、一度マジで拒絶されてみたらええねん。そしたら拒絶されても世界は終わらないことも分かるだろうし、凹んでもそれくらいかと思えるようになるんじゃね?<鬼か
世界を作ってるのは自分だから、自分の認識でどーとでもなる。
…とか思いつつも、そんなに開き直れない時期が私にもありました。
ところで、これは私の経験上言えることなんだけど、拒絶覚悟で行っても案外、あからさまな拒絶って受けないと思うんだよね。この歳になったら相手も大人だから、あからさまにはやらない (あからさまにやる人間は、たぶん相当に性格がこじれているので放置を推奨)。そして「あからさまな拒絶をしない=嫌われてはいない」と半ばむりやりにでも解釈する。嫌われてるかも…と思うとき、拒絶を示しているのは相手じゃなくて自分だ。相手がはっきりそう言ったのではなく、「自分が」嫌われていると解釈しているだけ。この気づきって、人生においてそうとう大事よ。
「あからさまな拒絶をしない=嫌われてはいない」と半ばむりやりにでも解釈するのは、めっちゃ力技ではあるんだけど、それを繰り返しているうちに、だんだん本当のことになってくるから怖いんだよね。認識は行動を変えるけど、その逆も真で、行動は認識を変えることがある。まぁ悪くないかな?とずうずうしくも思えるようになってしまうあたりが怖い。あー、まー、思い込み最強説ですね。世界は在るものだけど、自分にとっての世界を作るのは自分。
とりあえず、アドラー心理学トーキングセミナーを読んでみるといいよ。
全員の鱗がぼろぼろと落ちまくるといいと思うの。
頭殴られてきなさい。
好かれようとするから疲れるのだが、別に好かれるところまで行かなくても、最低限、嫌われさえなかったら不適合感は発生しない気がする。好かれている人よりは便宜を図ってもらえないかもしれないけど、普通に日常を送る上ではそれで十分じゃね?
私は、力技を無理矢理実践するようになってから、ご機嫌でいられることが増えた。嫌われているんじゃないかと疑心暗鬼になりつつそこにいつづけるより、なんとなくその場にいることが許されている自分を意識するのは、わりと快適。まぁ、それでも必要最低限だし、ねっとりした付き合いをしてる人を見て淋しくなることもあるんだけど、この距離感ってなんとなく心地いいわ。最低限度の受け容れられ方って言うかさ。
受け容れられ体験を得る
ところで、認識を変えるにはその元になる行動が必要だよね。個人的には、受け容れられ体験として最強なのは、《一言ご挨拶作戦》だと思う。無理矢理踏み込まれた感じがしないし、挨拶されたことで、よく分からんのはよく分からんのだけど、人懐っこくていいやつっぽい印象が形成されるように思うー。《微妙な距離感でなんとなく接点のあるヤツは憎めない効果》<今命名した
憎めないと思わせたらしめたもの。
とりあえずはお店の店員さんから攻略するのがよいかと。店員さん、客商売だからネガティブ反応なはあまり返さない。まずは、客という立場を利用して温室から攻略するのだー (こずるい)。レジ打ってもらったら無理矢理笑え。んで「ありがとう♪」相手も多分笑ってくれると思う。それまで愛想悪かった店員さんが、挨拶を交わすようになってから、急に愛想よくなったりする。向こうからご挨拶してくれるようになったら、相当自信がつく。そうなったら範囲を広げていくのだ。陣地を増やすのだ。ポイントは「あなたがそこにいて挨拶できるのが嬉しいんです」を表現すること。相手の顔を認識した時点でにっこり微笑むだけで、言葉なしでもけっこう伝わると思うの。けどある程度自信がつくまで深く絡むと辛いから、すれ違うときにご挨拶でいいような気がする。
会社内では必要最低限でも、外部でこうやって受け容れられ体験を補給してるから、それでもなんとなくやってられるのかもしらん。これ、けっこういい方法だと思うのよね。深い人間関係を発生させずに、受け容れられ体験を繰り返して、なんとなく自信を持つことができるようになるから。まーリハビリみたいなもんです。ここから先に進むのが、なかなか大変だけど!
世界と繋がれ<壮大なる人生のテーマ
ところで補足
最初から受け容れられ体験を想定してご挨拶をしたんじゃないんだよね。さすがにそこまで腹黒くないです。
たまたま行ったお店の接客がなんかいい感じで、ちょっといい気分にさせてもらったから、ついうっかり、その店員さんに「ありがとう」って言っちゃったのな。「ありがとう」ってうっかり出ることってあるんだなーって思った。そしたらその店員さん、すっげえいい笑顔で「ありがとうございました♪」って言ったの。なんかそれがやたら気持ちよくて、働いててくれてありがとうな気持ちになった。それからどこでもレジの後、「ありがとう」って言うようになった。「ありがとう」効果は絶大で、マニュアル接客の無愛想な店員さんが、その瞬間素に戻って、素の「ありがとう」を返してくれたりする。あの素の表情は、何度見ても気持ちよいよ。あ、自分、今この人の心開いたかも、って思う<思いこみ
それが受け容れられ体験だと気付いたのはつい最近。




