感じたことをできるだけそのままの形で表現するっていうのは、私にとって人生のテーマのひとつ (しかも最重要課題) なんだけど、言葉の扱いをおぼえればおぼえるほど、あーそんなの無理だよ!と思うのも事実であって。
端的に言っちゃえば、言葉は役に立たない。
「感じる」っていうのは、同時多発的に起こるもんだけど、言葉 (単語) ってそれに対するひとつの意味しか持たないじゃない。だから同時多発的に起こった「感じ」を同時多発的に記述できないもん。逐次的にしか記述できないでしょ。逐次的になっちゃったらもう本来の「感じ」とは全然違ったものになっちゃう。
言葉 (単語) にはその言外にニュアンスとかあったりするから、そういうのを駆使すれば多少は伝わるかもしれない。けどやっぱり「感じ」に完全に fit させることってなかなかうまくいかないのれす。そもそもこの「感じ」っていう言葉だって、私が感じている「それ」とはもうなんかずれちゃってるの。私には「感じ」としか表現できないからそう書いてるけど、私にとっての「感じ」と、あなたが「感じ」という言葉から想起したものは果たして同じでしょうか?
同時多発的って書いたけど、わかる?んとね「それ」はひとつの場所だけで起こるんじゃなくて、なんだろ、全身の感覚を使って「感じている」。想起された何かは絶対に「感情」や「論理」のレベルの言葉だけで表現しきれない部分を持っているでしょ。同時に引き起こされる視覚イメージとか、触感とか、音とか、雰囲気とか、温度、etc、etc とにかくいろんなものを持っていて、私がなにか感じるとき、そういうものが一気にくる。
そういうものって「こっち側」の存在じゃないんだよね。なんていうのかな、完全には捉えることもできないようなもの。けど私がそれを観る術、伝える術は、身体や意識や観念や常識に囚われたこっち側の言葉でしかないから、そこにはまらないそれをむりやりにこっち側の言葉で翻訳して投げてるのね。言葉を尽くせば尽くすほど、本来の「それ」からの解離は酷くなるような気がする。
なんだろう、本当はね、意識と意識で重なっちゃえばいいのにってしょっちゅう思うのよね。この境界をとっぱらえたら楽なのに、といつも想像する。解放され、壁を消失させた私の意識。そこにあなたの意識が重なる。あなたは直接「それ」をみればいい。子どもの頃から、どうしてそれができないのか不思議でしかたがなかった。どうしてあの人の意識が感じている「それ」を直接感じることができないんだろうって。魂と魂の融和。重なり。本当の意味での共感。
そう、言葉は役に立たない。
けど私は諦めが悪いので、自分の中の「それ」と他者の中の「それ」がよく一致するまで、いろんな言葉を尽くして語るのだと思うよ。自分の中の「それ」が、他者の中でよく再現されるときのあの喜び、完全に一致してはいないことを理解はしていても、共に感じているという喜び。いちど味わうとやめられなくなるんだもの。
言葉は役立たず。[それ]をfitしる!<それ=言外の何か
http://twitter.com/TsumuRi/statuses/104177932
そいや前になんか似たようなこと書いてた。けど今とは感じ方が違ってて面白い。
もしかして一年前の同日とかのエントリ、引っ張り出したらおもしろいのかもな。やってみようかな。
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