生きていく上で他人を憎いと感じたら、そのまま相手を憎み倒して、死ぬまでゴキブリのように嫌っても別に良くない?
たいていの宗教や思想は憎しみを肯定的に捉えていないし、憎むことで苦しむようになるとまで言っているものもあるけどさぁ1
しかし、憎しみを否定するのは、あまりよくない。自分の中に生じた憎しみを否定するのは、特に自己評価の低い人間の場合、自己を否定することに繋がるかもしれない。
自分を否定する経路
- 他人を憎むのはよくない
- 他人を憎む自分がよくない ←ここがちょっとおかしい
- やっぱ自分だめだ
昔こういう考え方をしていて、しょっちゅう自分はバカだとか最低の人間だとか、生きる価値もないとか思っていた。だが、よく考えたら、憎まれるだけのことをしている相手が悪い。それだけのことをされているのに、何故仕返しをしちゃならんのだ。何故やられたことを我慢した上に、怒ること、憎むことまで否定されねばならんのだ。昔のおえらい人は「右の頬を叩かれたら、左の頬も差し出せ」とか何とか言ったらしいが、俗物である私にはそんなことは出来ません。右の頬を叩かれたら、相手の左の頬を2倍くらいに叩き返した上でもまだむかついていると思う。俗物だもの。
…脱線した。
確かに昔のえらい人の言うことには一理あって、人を憎んだり怨んだりしながら生きることで、しんどい思いをするのは確かだ。憎しみや恨みに任せて人を攻撃するのは、自分はすっきりするだろうけど、相手が痛い思いをするからよろしくない。かと言って、相手を攻撃するのを抑えて、自分の中の憎しみや恨みとひたすらに向き合うのは辛い。それは、憎むとか怨むとかいう感情がとても衝動的で大きなエネルギーを持っており、元々コントロールが大変なものだから。だから彼らの言うことは一面では正しい。
しかし、今ここで生きている自分の思うこと、考えることは、なにひとつ否定されなくてよい。憎む理由があるなら憎んでもいいし、憎んでいるならそれを抱えたまま生きていけばよろしい。それを恥じることなんてないし、憎しみを抱える自分を否定しなくてよい。だってむかつくんだもん。あるものはあるんだもん。仕方ないじゃん? ヽ(´ー`)ノイヤッホー
怒りや憎しみをじっと我慢して向き合うのが苦しければ、頭の中にその相手を想像して何度刺し殺しても構わないと思うし。頭のなかで刺し殺す分には、罪にも問われない。頭の中だけで発散できなかったら、藁人形でも相手の写真でも空き缶でも、適切な代用品2 を用意して、めった切りにするなりめった刺しにするなり、ぼこぼこにしていいじゃありませんか。
さすがに藁人形まではやったことないけど、紙に相手の名前を書いて、その上から「むかつくむかつくむかつく…」って書きまくったことはある。一面真っ黒になったのに気付いて、一瞬ふっと頭が冷めてその紙を見た。そうしたら、そんなしょうもないことに時間やエネルギーを注ぎ込んでるのが本当に馬鹿馬鹿しくなってしまって、自分超バカだ、ちっちぇー!とか思いつつ、げらげら笑って意味も分からず泣いて、スッキリしてどうでもよくなった。その後、そいつの顔を見ても別にむかつかなくなった。平気になった。やるだけやったから許せたんだと思うw
爺は思う。怒りや憎しみを完全に否定するのではなくて、怒りや憎しみも引っくるめて自分を肯定してやること、その上で憎い相手がそこで普段通りに生活しているのを認めてやるのが理想の形かなぁ、と。難しいけど爺の理想。
余談
ところで、散々嫌な目に遭わされているのに、怒ったり憎んだりしないのは、逆に不健全だと思う。心が不感症になっているというか、生じるはずのでっかいエネルギーがどこにいってしまったのかと心配になってしまうんだよね。自分がそれで転んでいるから余計にね。
Footnotes
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