これまで数エントリに渡って書いた話は、人との距離を自分サイドでコントロールするということ。こういう風なやり方を覚えてから、たぶんとても長い時間が経っているのだけど、それがいつの間にか当たり前になっていたので、やり方が変わっていることに気づいていなかった。
気づいたのはついこの間のことで、何か問題が起こって真剣に考える羽目になったり、誰か信頼できる人に指摘されないと、自分のことは分からないようです。鈍いです。
わたし:たいへんだよー、全然私のせいじゃない問題を持ち込まれたのだけど、ぶっちゃけいらんことに巻き込まれるのはもう勘弁だし、ありえへんよねぇ
師匠:ふうん、で、どうするのそれ。
わたし:どうするも何も、全然関係ないし、私の手には負えそうもないし、その人には申し訳ないけど、完全スルーさせてもらうつもりだってぶっちゃけ自分のことでいっぱいいっぱいじゃね? 私が巻き込まれて症状再燃させたら、師匠もうっとおしい話を延々聞かされて超困るくせにw
師匠:…いつの間にそんなえらそうなことに言える立場になったのかな、あなたはw
からかい半分に指摘されて、自分がえらそーに語っていた内容に気づく。ああそういえば、昔はそうじゃなかったね、と思い出す。えらそうに言っているときは、たいてい、昔のことなんてすっかり忘れている。過去は私の中で、だんだんと風化していく。
人間関係のやり方がはっきり変わったのがいつか分からないけど、それ以前の私は、頼まれたことは嫌とは言えず、何でもいい顔をしてハイハイと聞き入れていた。そこに悲しい人がいれば、一緒になって涙を流し、そこに怒る人がいれば、一緒になって怒っていた。一人になるのを恐れるあまりに、強迫的なまでに人と関わろうとしていた。そうやって、自ら望んで関わったくせに、人間関係に疲れ果て、人間関係が嫌になっていた。人と関わるのがすごく怖くなったし、それでいて一人になるのもめちゃくちゃ怖かった。
その理由は、自分の存在を人に頼っていたから。人を通してしか自分を評価できなかった。自分の中に、自分というものがなかった。人に嫌われたら生きていけないとさえ思っていた。だから人に合わせたし人に関わろうとした。傷つけられても関わろうとした。
けど、いつの間にやら毬藻くんが生えてきて、子どもみたいなのを自分の中に発見して、なんじゃこいつら好き放題だな、てか案外世の中いいかげんなのかよ?あ?とか思いはじめて、毬藻くんが怒っていてこあいから、最低限生活習慣くらいは自分をコントロールする努力をはじめて、ちょっと出来てきたら、何これ俺超えらいじゃん、やればできる子じゃんと調子づいてしまったわけで。そうやって、他者の評価に寄りかからなくても、しっかり根っこをはって立っていられる自分が生えた。1
しっかり根っこをはって立っている自分は、人の顔色をうかがって、勝手に傷つくことがない。人の問題に首を突っ込んで自爆することもない。マイペースで、自分の問題とだけ、しっかり向き合って生きていくの。そして、楽しいことと、幸せな気持ちを探して、楽にうにゃうにゃっと生きていたらいい。一人でいるのも大丈夫になった。気が合う人がたまにかまってくれたらいいや。
わたし:けどさ、これってものすごくワガママだしドライだよねえ。人に合わせないし、わざと空気読まないし、好きなことばっかり言ってるし。
師匠:まぁ見方によっちゃ、ねぇ。けどワガママ自覚してたらええんちゃうの? ていうかね、そのくらいの方が健康な人間のやり方と思うわw
わたし:ええええええええ!こんなにドライでいいのん?!
師匠:いや、以前のあなたの調子で人に合わせてたら、絶対身がもたんやろ…。僕がこれまでにそれでどれだけ迷惑かけられてきたか…ぶつぶつ…
わたし:そっかー、さすが毬藻くんメソッドw
師匠:まぁモデルは僕なわけだがw2
わたし:……(華麗にスルー)
師匠が調子に乗るのであえてスルーしたけれども、私の人間関係の方法論が、師匠を観察してぱくることで、私の中に毬藻くんという形になって発生したのは事実である。私が師匠を人間的に尊敬しているのは、ばれているだろうけど秘密なのである。
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とりあえず、シリーズ (?) 完結した。結局人間が好き。
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