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ひとは涅槃に達せるか

「よく生きる」ことがテーマになってから、私は「早く枯れたい」と呟くようになった。私にとって枯れたイメージは、老人である。老人の中でも、食欲や性欲や物欲を失い、煩悩を失った人である。言ってみれば仙人である。私は仙人のイメージを、尊敬の念と近づきたい気持ちを込めて「爺 (じじ)」と呼ぶ。私は、生きて仙人となった老人を、寡聞にしてしらない。


究極的には、今の時点で善行 (平たく言えば努力) を積みあげていくべし。

過去がどうであろうと、現在がどうであろうと関係ない。過去がよくても現在がよくても、今の時点でできる限りの善行を積まなければいけない。

今積み上げる善行が、未来で報われるかどうかの保証はない。最悪、結果は全部どぶの中に放り込まれてしまうかも知れないわね。そう感じるのは、今の善行が、未来を期待したものであるから。この段階ではまだ涅槃には行けない。未来に対する欲を捨てよ。

未来のための善行が、善行のための善行になった時点で、涅槃は近い。


涅槃とは、仏教用語であり、悟りと同じ意味である。

now and here (今ここ) の視点での努力を始めてしばらく、私は何度も「この努力の境地は、きっと悟りに近いものであるな」と感じた。now and here の努力は、まず全てを見、それが如何なるものであっても、受容することから始まる。

その感覚を知ってから「枯れたい」と思うようになった。たいしたことのない感情の起伏や、理不尽な欲求やコンプレックスに振り回され、無駄に時間を費やし、ただ疲弊するという、無意味な繰り返しから自由になりたいと。私は全ての迷いを放棄したい。私は涅槃を渇望する。

しかし、間違っても涅槃に達するために善行を積んではいけないことも分かっているのだ。その時点で未来に対する欲が生じ、善行に見合う結果を求めるだけの無限地獄に迷い込んでしまうだろう。涅槃は求めて達せられるものではなく、結果的に達せられるものである。

今の時点で、涅槃は遥か遙か遠くにある。


それを求めるときそれは顕れず、求めないときにはいつもそこに在る。

補足

これを書く直接のきっかけとか経緯とかは毬藻ん?の方。なんかまーいろいろ思うところあるんだけど上手く書けなかったのさね。

毬藻ん? – 2007-09-26

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