最近、 「あなたを愛しています」という言葉の意味と、中にある優しさと悲しさが、少しだけ分かるようになったよ。
以前にも書いたことがあるけれど、 私の知っている愛の類型は、聖書の有名な一節の、コリント人の手紙に現れているあの形。あれはとても優しくて、人が実践するには悲しすぎる。
なんとなくだけど、人に愛していることを伝えられるのは、その人を失う時じゃないかと思う。愛しているという言葉は、今伝えるには少し悲しすぎる。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。
コリント人への手紙 第一 13 章 4〜8 節
私は昔、世界は陰惨で汚くて暴力に満ちて、パンドラの箱の中にさえ、希望など残っていないと信じていた。この醜い世界を生きるためには、聖書の語る愛は、優しすぎて生きる邪魔になるだけだと思っていた。だけど私の目に映る世界は、その姿を変えてしまった。
それでも世界は美しい。
世界は醜い。人間存在も醜い。だけど同時に、私は、美しい世界と、愛しい人間存在を見ることができるようになった。
きっと、全ての人間関係の根底には愛情と献身がある。我が儘や押しつけが出て傷つけ合うこともある。しかし、最終的には互いが幸せになることを願うのが、人間という存在であると、私は信じたい。
傷つき、羽根を休める必要のある人には、止まり木となり風雨から守る人が寄り添い、彼が飛べるようになったら、また外の世界へと飛び立っていけばいい。止まり木となった人もまた、彼の元で休んでいる人から、根を張り、葉を茂らせるためのエネルギーを得る。
愛というのはそういう種類のもので、与えても与えても、きっと涸れることはない。
愛の弱点
ただし、殺伐とした世界に生きる人間を相手にしたとき、愛に基づいて行動する人間は愚か者でしかない。彼は利用され、搾取され、利用価値がなくなれば捨てられる。
こういう懸念が捨てられない限り、愛の実践は人間にとって、とても難しく、とても悲しいものとなる可能性を孕む。
だから私はどこかで線を引かなければならない。何を許し、何を許さず、何を与え、何を与えないか、誰と関わり、誰と関わらないか。線を引くことは少しの罪悪感を生むけれど、理想ではなく実際的に愛を運用するためには、最低限の線引きが必要。
私は、神様ではないから。
醜さを内包する世界と人の間で、生き延びねばならないから。
関連
2007年6月に、愛について書いた記事。
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