この間、「わかる」について、つらつらと考えていた。
その過程でふと思い出したことがあって、過去に書いた文章を引っ張り出した。過去といってもほんの数ヶ月前で、まだ半年も経っていないけど。
Spherical-moss.net » 不自由で愛しい人間
雨は、ガーベラ
これを思いだしたキーワードは、断絶。
Spherical-moss.net » 拒絶と断絶感を書いているときに、頭の中に映像がいくつも出てきて、くるくると回った。その中に、空から降る、たくさんのガーベラの映像。それは、映画の、ギミー・ヘブンの中の映像。映画が扱ったのは共感覚者の孤独。1
発売元: 松竹
価格: ¥ 3,990
発売日: 2006/05/27
主人公が、深い意味でその少女と出会ったとき、天気は、雨。少女は次々に数字の持つ色を言う。ものの音とか、ものの触感、ものの記号、そんなものを次々と並べていって、空を見上げて、聞く「見える?」と。
「雨は、ガーベラ」
そう言ったときに、雨粒はガーベラに姿を変えて、彼らを祝福しているかのように見えたの。自分にしか理解し得ない符丁を理解できる者と出会い、言葉を交わしていることに対する祝福。そして彼らの喜び。彼らはそれを得るために、たくさんの人間を傷つけて。自分自身も傷ついて。多くの断絶を経験して、やっと出会ったことに対する、祝福。
人に幻滅したはなし
ガーベラの映像の次に、過去に、いい感じで師匠に幻滅した瞬間を思い出して、なんだかおかしくなった。私は、同じところをぐるぐるしている。
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お互いの中にあるものを、噛み合わせようと、理解し合おうと、分かち合おうと、一生懸命努力するときがあって、それでもどうにもならないときがあって、散々もどかしい思いをする。そして、師匠がどれだけ努力しても、どうにもならないことにやっと気づいたとき、絶対的な保護者だった師匠から、私がやっと分離しはじめた。
やっと、人に、全くの他人として出会った。
そのときの気持ちは淋しいような、切ないような、嬉しいような、色々な気持ちが混在した、複雑な気持ちだった。今も覚えている。
母と子の分離と類似のもの?
保護者からの「私」の分離は、本来なら思春期までに果たされるべきものだと思う。それは多分、母と子の分離と呼ばれるものと同じようなもので。
上のリンク先にも書いているように、私は、大人になった後で、自分で判断する権利を師匠に委ね、つい最近までは師匠に依存的な生き方をしていた。それにより、私は数ヶ月前という時期に、それを経験した。
思春期までに果たされるべきだった本来のそれは、明確に果たされた瞬間があるのか、よく分からない部分はあるけれど、なんとなくそれっぽい認識の変化は経験した。
「私」の分離が起こった後、私は、師匠に対しても、他の人に対しても、なんとなく諦めを持つようになった。ネガティブな意味はあまりなくて、「ダメ」というよりは「しょうがないな」という感じの諦め。「深く分かってもらえなくてもそのときはしかたないな」という感じの、軽いもの。多かれ少なかれ、共有できないものが絶対あるし、だから私は私でいられるし、人は人でいられるのだと思う。
「完全には」わかりません
私が私で、他人がその人である以上、私はその人を完全に分かることはできないし、その人が私を完全に分かることもできない。私の思いは私の思いであり、その人の思いはその人の思い。
同じ言葉をなぞったところで、私の思いがその人の思いになることはなく、また、その逆もない。だから、私は簡単に人に同情すべきではないし、勝手にお節介を焼くべきでもないと思う。
理解する努力は、諦めないけれど、人の痛みはその人のもので、人の喜びもその人のもの。どれだけ理解の努力を重ねても、それは、私のものにはならないし、その人のものであるべきのもの。
痛みについて
心に痛みを抱えている人は「おまえにはどうせ分からない」と言って、完全に閉じてしまうことがある。ネット上でもよく見かける。私は、それを見てなんとなくイライラする。
それは、こちら側の理解しようとする努力を全て拒絶されているかのように感じるから。また、私が過去に類似の痛みを抱えていた場合、痛みを経験していること、それを乗り越えようとあがいたこと、そういうもの全てを、否定されているかのようにも感じる。ただ、こうやって感じるイライラは、あくまでの私の側の問題で、その人が悪いわけではない。「どうせ分からない」というのは本当のこと。だから見ないふりをする。
見ないふりをして、実はこっそりと、いつか手を繋げる時を待つ。
深い意味で出会う
「わかる」の話に戻るけど。
すりあわせをした結果、人の持っている感じが「すとん」と自分の中に入ってくることがあって、そういうときは相手も腑に落ちたような顔をしているから、その瞬間は「今、深い意味で出会えたんだな」と思う。多分それは「雨はガーベラ」と同じような、私と、対峙しているその相手にのみ通じる符丁のようなもので、その中には、言葉では語れないような微妙な感覚も、含まれている。
自他の分離を経験した時点で、私は、まず、個としての自分に出会った。孤独になったし、断絶を見ることも多くなった。孤独も断絶も、個としての自分と他者が出会ったことによる副産物だと思う。それからずっと、深い意味で人に出会える瞬間、互いにしか通じない符丁のようなものを共有できる瞬間を探し続けている。
人を諦めるとか言いながら、激しく諦めが悪い。だからこのブログも、続いているのだと思う。
Footnotes
行頭の数字は本文中の注釈番号に対応さしてます。
- この映画の共感覚の表現には、私の知識としてのそれと比較すると、微妙に違和感がある部分がいくつかあった。そのへんは、実際共感覚のある人に聞いてみたいと思ったりもする。けど共感覚のある人同士でも何か違ったりするんだっけ。 Back
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