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受容に伴う痛み

痛みと共感についての話をしたから、ついでにもうひとつ。

共感や受容を前提とした対人関係上の痛みについて書いてみる。人と対峙するときに感じる、絶望的に深い痛み、断絶、そういうものの話。

これは、私の自我が今ほどしっかりしていなかった頃の思い出話だ。

前提

以前に何度か書いているが、前提として、私が対人関係を結ぶとき、保護者的視点に立ちがちであるという要素がある。

私には、人の弱い面や脆い面を見てしまうと、その人を愛しい存在、守るべき存在であると考えてしまう傾向がある。そして、その人を受容しようと過剰に努力する傾向がある。

本来の自我と作られた自我

人を受容しようとするとき、私は対峙する人が、私に何の役割を求めているかを考える。その人が正直に振る舞うという前提のもとでは、私はその人とのコミュニケーションを通じて、その人の満たされなかった部分や欠けている部分を何となく理解することができる。

そして、その人が必要としている役割、すなわちその人の内にある「何か」を演じる。それはときには保護者的存在(母親、姉など)であったり、ときには相対的弱者(娘、妹)であったりもした。

こちらが演じようとしなくても、その人が勝手に、私の振る舞いに、内にある「何か」を重ねて見るという場合もあるのだけど。

いずれの場合でも、私は、私の本来の自我ではなく、対峙する人に内在する「何か」の像によってその場での役割を規定され、その人とコミュニケーションを続けることになる。その過程で、私が与えることもあれば、逆に私が与えられることもあった。

結果的に、その人はそれまで満たされなかった部分や、欠けていた部分を補い、十分満たされた後に、私から去っていった。こんな束の間の人間関係を何度も繰り返した。

私の求めていたもの

さて、そのような人間関係に、私が何を求めていたかの話をしよう。

私は、自分を肯定したり受容したりが極端に下手だった。誰かに肯定されなければ、自分には何の価値もないと考えていた。誰かに少し否定されれば、それはすなわち私には生きる価値などないという表明に等しかった。

そこで私は、多くの人間と接点を持つことで、誰かの役に立つことで、承認され、受容されようと考えた。こう考えていたということに気づいたのはつい最近のことで、当時の私はただ淋しくて悲しくて、それを埋めるために人と接点を持ちたがっているとばかり考えていたわけだが。

繋がるほどに孤独になった

多くの人と対峙することで、私は満たされただろうか?

その答えは否、である。

私は、その人が私を見、私と向き合っているのではなく、私にその人に内在する「何か」を投影し、その人と向き合っていることに気づいていた。また、自分自身が、すでに存在する誰かの役割を規定され、それに従って行動していることも知っていた。

その当時の私の感覚では、対峙している相手の意図に従って行動している操り人形のような私が、対峙している人との間に立っていた。操り人形の行動は、私には制御できなかった。私には拒否権も選択権もなく、ただ相手に求められるままに、行動や言葉を紡いでいた。

相手は、操り人形の私と、その後ろでそれを眺めている私がいるなどという意識はなかっただろう。だから多分、相手にとっては、それは普通のコミュニケーションに過ぎなかっただろうと考える。

しかし私にとっては違った。

私を見、私を受容して欲しいという願いは完全に無視され、目の前の人間は、その人に内在する「何か」を見、「何か」を受容している。受容されているはずなのに疎外されていると感じた。自分も人も、とても遠くに感じたし、絶望的な距離を、二者の間に見た。

その人が欲しがって得たものは、二者の関係ではなく、その人と内在する誰かとの対話であり、私がしたことはお膳立てに過ぎなかった。「都合のいい人形として利用されているのではないか」という疑念だけが膨れあがっていった。

そういう人間関係は、ただ私を傷つけるだけに終わった。ちっとも楽しくなかったし、何も埋まらなかった。

淋しさ地獄からの脱出

現在の話をしよう。

私の自我は、以前に比べてだいぶ強くなった。規定された役割ではなく、自分の意図に従って行動するようになった。早い話が、「いい子」の像を演じるのをやめた。

我が強くなったせいで、人と衝突することもある。衝突するのは、時には痛い目にも遭うし、ダメージも受ける。だけどこれでいいと思う。このままの状態で、人に愛され、受容されることこそが、私の求めていた受容であり、肯定であることを、私は知っている。

私はそれを、私が師匠と呼ぶ人に教えられた。

その過程で、彼が私に対してしたことは、私が過去の人間関係の中で行ってきたことと同じ、対話の中で、私に内在する「何か」を彼自身または彼と私との間の二者関係に投影させるという作業だった。それを通じて、私は自分が何を持っているのか、何を望んでいるのか、自分自身に問うようになった。

彼は過去の私と同じ役割を演じたが、決定的に違うところは、私が相手に内在する「何か」を既存の枠と感じ、相手の規定に従ったことに対し、彼は自分の役割を自分で規定し、彼自身で枠を設定し、それに従ったということだろう。

つまり、コントロール権を誰が持つかという部分が違った。

受容とコントロール

人間関係において、二者もしくは多者間のコントロール権を手放しにし、全て他者に任せてしまった場合、過去の私と同じように、一方的に搾取される立場に陥る。

特に、私のような対人関係形式を築きやすい人間の場合、人とどれだけ関わっても淋しさが止まらないという無限地獄に陥りやすいと思う。最悪の場合は、暴力の犠牲になっても相手にすがるという、どうしようもない状態になるかもしれない。それは、外部からの評価に依存的に生きてきた「いい子」特有の病と言ってもいいと思う。

他者の望みを受け容れようという態度自体を否定はしない。けれど、相手の言うがままになって、コントロール権を手放すことはあってはならない。手放せば、搾取されっぱなしの無限地獄に陥る。だから時には「このラインまでしかできない」ことを、きっぱりと表明することも必要になる。

このへんは以前にそのまま書いたものがあった。
Spherical-moss.net » 愛と自己防衛。自己満足の誘惑。

自己と他者のバランス

傷ついた人を受容し、肯定するという作業は、人間関係の中で必要となる作業であるし、受容の技術を知らないよりは、知っていた方がいいに越したことはない。

ただし、先に述べたように、自分が受容しっぱなしの状態では、痛みばかりが蓄積しいずれ疲弊して倒れてしまう。人が他者を受容できるのは、自分の足元がしっかりしており、自分自身が誰かから十分な肯定や受容を得られているときだけだ。

そうでないとき、他者のために動こうなどと考えてはいけない。

私の場合、癒せなかった悲しさや淋しさを埋めるために人と関わり、受容する作業を繰り返したが、得られたのは虚しさだけで、何も残らなかった。

自分が満たされるために必要なのは、自分が人を承認し、受容することではなく、素のままの自分が人に承認され、受容されることだ。自分が満たされるためには、自分が本来何者であるかを知らねばならない。

私が生きるための最初の問いは「私は何を望んでいる?」

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Comments:3

ぶらっく 07-11-07 (水) 21:42

非常にオモシロい考察ですね。勉強になります。
その他のエントリも、いつも本当に興味深く拝見しています。

このエントリの「繋がるほどに孤独になった」で書かれている
ような趣旨で、心底惚れていた女性にフラれた経験があります。
この種類の対人に関するエントリでは、まるでその彼女が
書いているのではないかと錯覚するほどです。
でも、その「絶望の景色」を見ている人間と対峙している
(もしくは対峙したい、させてもらいたいと考えている)側の
人間の言い分もあるので、僕もそのことについてエントリを
書いてみようと思いました。

元・品管 07-11-08 (木) 10:38

おはようございます◎

今日は就活の結果待ちです。

この文章を読んで、私が親に対して反発心を抱く原因が何なのか?
が少し解ったような気がします。

私がいけないのか?
確かに、出来ていない娘だけど・・・
共感出来ない、肯定出来ない、気持ちが苛立つ、冷静になれない。
こんな気持ちが頭から離れませんでしたが、何かが解ったような気がします。

親は私に対して都合の良い子供を求めているのかも知れない・・・。

私も相手の求めるだろう助言やら言葉を選んで応える傾向があります。
でも、私の場合、好意を持っている相手に対しての態度であることが多いです。
心を許している相手か、もしくは、私に害を与えない相手でないと、私の中に侵入して来て心をぐちゃぐちゃにされかねないと思っているからです。

残念ながら親も土足で私に踏み込む人間なので
しょっちゅう心をかき乱され苛立ちます。

すみません、私の事を勝手に書いて・・・
親しい間柄でもないのに。
私も同じことをしているに過ぎないのかも知れないですね。

TsumuRi 07-11-09 (金) 20:36

>ぶらっくさま

スパム防止用のプラグインに引っかかっており、コメントの反映とレスが遅れました。すみません。

私の思考は、ある程度、なにかの類型に当てはめることができると思います。でないと心理学なんていう学問は成立しませんから。その種類の人に特徴的な思考が、「繋がるほどに孤独になった」に現れたのではないでしょうか。

「絶望の景色」という表現が少し引っかかったのですが、あの頃私は絶望的な気持ちにはなっていたけれど、完全に絶望してはいなかったと思います。人間に対する期待を捨てきれないでいたという方が正確かもしれません。でなければ次々にそれを繰り返すこともなかったでしょうし、その後、治療者を求めることもなかったと思いますから。

>元・品管さま

誰だって、自分に都合のいい人間を求めるという傾向はあるでしょう。私だって、自分に悪意を向ける相手より、自分に好意を向ける相手の方が好きですよ。そういうのが問題になるのは、それがいきすぎて相手を搾取し始めたときだけだと思います。

相手に苛立っても憎しみを覚えても、その感情自体は否定されるべきではないと思います。その思いが理不尽な思い (つまり八つ当たり) であれば、出すのは控えた方がよいとは思いますが。少なくとも私は、八つ当たり以外の自分の思いを抑えず好き勝手言うようになってから、同じように好き勝手言ってくる相手を、許すことができるようになりました。

ひたすら相手の望み通りにしようと耐えていた頃より、今はずいぶん楽です。

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