そろそろ、心を解剖するのをやめて、元通りに蓋をして、そのままの形で、ブラックボックスとして扱う時期が来ているのかもしれない。
ずっと生きづらさを抱えてきた。何年もかかって、心の中にあるもの——経験や傷つきや感情、思いつく限りありとあらゆるもの——を発掘し、解剖し、理由を問う作業をしてきた。結果、私の心の傾向自体は、あまり変わらなかった。
ただし、私の心というブラックボックスが「ある状況に対して返す反応の傾向」を知ることはできた。何が苦手か、何を見たときに感情が暴走するか、逆に、どういう状況でいい状態でいられるか、等々。傾向を知ることで、反応に対する備えができ、備えがあるおかげで、反応が緩やかに起こるようになり、生きづらさは軽減された。
何年もその作業をしていたせいか、私には心を解剖するくせがある。心が感じている感覚、身体が感じている感覚、そういうものについて、特にその感覚が不快である場合、「何故?」と詳細に解剖していく。
「何故?」の結果、得られる答えはいつも同じだ。経路が異なる場合はある。詳細が異なる場合はある。しかし大筋で、結論はいつも同じ。同じ結論を得るために考える。考えることにエネルギーを使う。これはエネルギーの無駄遣いだ。
そして、考えれば考えるほど、言葉を紡げば紡ぐほど、思考は自己正当化の方向に傾いていく。つまりは言い訳だ。「不快」に手前勝手な理由をつけ、自分をむりやり納得させる。このような理由があるから、不快なのは仕方がないのだ、不快だと感じるのが当たり前なのだ、だから私は不快だと感じていいのだ、と。
言い訳して安心する。何かをしたような気になる。実際は何も変わっていない。むしろ、その理由のせいで、精神的には辛くなっている場合が多い。なんという非建設的な作業だろう。
すでに、解剖するだけ解剖し尽くした。心の傾向を把握することはできた。解剖するだけでは心の傾向を変えることなどできないのだから、もう解剖はおしまい。元通りに詰めて蓋をして、「そういう傾向のある自分」が苦しくならないように、辛くならないように、よりよい状況、環境を選び取っていくことしか、私にはできないのだ、と思う。
多分、解剖することではなく、よりよい状況に身を置く対処をしていくことで、多分心の傾向は変わる。実際少しづつ変わっている。
過去は他人に依存していた。四六時中、誰かが自分に目を向けていると感じられないと、死にたくなっていた。死にたいと言って他人の関心を引いた。それが消えた。今この瞬間、誰も私を見ていなくても、呼べば誰か返事してくれる的な信頼を得た。世界の全てが敵だと感じていたのに、世界は私を受け入れてくれると感じるようになった。会社などで、競争に晒されると、やっぱり疑心暗鬼に陥って、心の平穏を失いがちだけど。
心を解剖することの重要性は否定しない。解剖しないと傾向は掴めない。よりよい状況を選ぶには、傾向を掴んでいた方が便利だから。だけど解剖にこだわりすぎてよりよい状況を選び取る作業をする時間や体力を失ってしまっては本末転倒。だから、そろそろ蓋をしてあげようと思う。
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