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観察と解釈の間

私が見たもの、感じたもの、それは「ほんとう」からかけ離れていることがある。その間を埋めて、調整できるようになることで、精神的に多少楽になれる気がする。

逆の言い方をすれば、その間を埋めない限り、延々と間違え続け、被らなくてよかったはずのストレスを被り続ける。

間を埋めるということは、すなわち、己の解釈の歪みや偏り、依存しがちな文脈を正確に把握するということで、もっと平たく言えば、己の偏見や先入観に自覚的になるということ。

他人の視線は己の視線

「己が壊れるくらいなら、仕事など続ける価値はない、さっさと辞めてしまった方がマシ。迷惑はかけるかもしれないが、周囲にかける迷惑も、社会に強いる負担も最小限で済む。完全に壊れてしまったら、家族の手を煩わせ、社会資源を消費するだけになってしまう」と、師匠に言った。1

師匠は「そうだけど、そうなったとき一番辛いのは本人だ」と返した。その語気は、さっきまでよりどこか荒いような気がした。

私は、語気の変化を「一番辛いのは本人」という前提を共有できない誰かへの、怒りや苛立ちの表明 (ただし非常に軽い表明) と捉えたし、そこには、この人は「本人」たちの置かれた立場や晒されている視線を見ている人、んでもって、彼がたまにうっかり感情を露わにする、という、いくつかの解釈の前提があった。

だがしかし。本当に、語気が荒くなったことが怒りや苛立ちの表明だったかといえば、そんなもん本人にお伺いを立てないと分からない。下手すりゃ本人も忘れている。真相は藪の中、闇の中、未来永劫出てこない。ならば、怒りや苛立ちを覚えたのは誰?という話になるのだが、そりゃ私以外にあり得ない。怒りや苛立ちを覚えないまでも、誰かに何らかの形で表明して欲しかったのかもしれない。

実際にあったことは、そういうやりとりがあった、そのときに彼の語気が荒くなった (ように私が感じた)、たったそれだけである。彼は客観的事実を告げたまで。価値判断や意味づけをしたのは私だ。

彼が客観的事実を告げるという行動を起こした水面下では、何かの価値判断が為されている可能性はあるだろう。しかし、その判断は第三者にも分かる明確な形で表明されていないわけだから、本意は本人以外誰にも分からない。「あなたは○○ですね」は下手すりゃ捏造になりかねない。「あなたが○○であると、私は解釈しました」でしかない。

歪なフィルタのはなし

多分、私は歪なフィルタを通して世界を見ている。フィルタの向こう側でいろんなことが起こっている。フィルタの向こう側にあるのは、そのまんまの世界。私が見ている世界はフィルタを通して解釈された世界。

目の前にいる人が怒っている。本人が「怒っているんだ」と宣言でもしない限り、彼が怒っていると解釈しているのは私だ。解釈のための情報は、彼の表情、言葉の選び方、語気、仕草、場のシチュエーション、等。これらの、実際にある情報を観察し、頭の中のフィルタを通して「目の前の人が怒っている」という解釈を導く。解釈の結果を受けて、感情が生じる。フィルタを通す過程はほぼ無意識の過程。

ここに落とし穴がある。

誰がどう見ても明らかに怒っているような場合はともかくも、微妙な場合にフィルタが悪さをすることがある。というか、私が対人関係上で抱えるストレスの原因は、多分ほぼこれなのである。

目の前にいる人がなんか微妙な態度を示している。状況的にもこれは私に怒っているっぽいと解釈する。嫌だなぁという感情が生まれる。これが何度もあるとその空間に居づらくなる。で、ストレスを抱えて自爆、と。

極端な場合になると「なにもない」ところでも「なにかある」ことになるよ。

そこまでいくと空気読み過ぎやねん、という話。なぜわざわざ己に不利な解釈をもって、わざわざ己の首を絞めねばならぬのか。おまえはマゾか。かわいそうな子になりたいのか。おーまーえーはーあーほーかーヽ(`Д´)ノ

なんかおかしな方向にいったが。本当にそこに存在している事実が何であるか、どこからが己が加えた解釈かを厳密に区別しなければならない。つっても、何かが起これば瞬時に心の中がざわざわしたりする。感じてしまうものは感じてしまう、で仕方ない。

それでも、無駄にかき乱されて自爆することをなくするために、そして、願わくば正しく空気が読める子になるために、私は己の歪なフィルタの特性を十分把握せねばいかんのだ。そうしない限り、いつまでも間違え続ける。

そのやり方は、浮かんではいるけどなんかものっそい労力を必要とするようでとっても困っている。観察があって解釈があったら、答え合わせがないとアレなんだけど、実生活で答え合わせなんぞなかなかできぬ……(だってそれ正解かどうかなんてなかなか人に聞けないじゃんかよ(ここが壁

Footnotes

行頭の数字は本文中の注釈番号に対応さしてます。

  1. これは、すさまじい自己正当化の結果の言葉ですよ。仕事を辞めるという選択を最大限補強するための正当化です。単に己の快/不快で語るよりは、大きいものを背負ってしまった、その結果せざるを得ない状態になった、というポーズを取る方が精神的には相当楽です。根底には、そういう視線に晒されたとき、己が精神的に耐えられないからそれを避けたいという単純な願望がある。まったく話を大きくしすぎである。ホント困った話ですね。 Back

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