うまれてすぐの頃から、現在までのアルバムを眺めていた。そこに写っているのは確かに私のはずだった。ところが、そこに写っているのが誰の顔なんだかよく分からないという、奇妙な感覚を覚えた。
アルバムを時系列でたどっていった。
うまれてすぐの頃、まだあかんぼうだった私の顔、1歳、2歳…と徐々に大きくなっていく私。保育園に通っていた頃までの顔には、確かに私はこういう顔だったという感じがある。記憶の中の私の自己像(そのものズバリの「姿」という意味での像)は、確かに写真の中の顔と一致していた。
一方で、小学校に入った頃からの写真には、奇妙な違和感を覚えた。小学校に入った頃からのアルバムには、私ではない別人が写っているような感じがある。私の記憶の中の私の像とは全く一致しない。このアルバムは確かに私のものであるし、周りに写っているのは、家族や、その頃私の周りにいた人たちだということは分かる。
それなのに、私だけが、誰かと入れ替えられてしまったような、そんな感じがあった。
私ではない誰かの成長の記録としては、そのアルバムに写っている顔は、整合性が取れているように見えた。こういう成長過程をたどって大人になったと言われれば「ふーん」と納得したであろう。そこに写っているのが、他ならない私自身だと言われることさえなければ。
小学校に入った頃から大学院生あたりまでの写真には、この奇妙な感じがずっとつきまとっていた。写真の中にいる私は、そのころ私の見ていたであろう私の像、すなわち現在の私の記憶にあるその頃の像とは、奇妙なほどかけ離れていた。
本当のところは、私の記憶の方がおかしかったのだと思う。
私自身が見ている自己像というのは、終始一貫して子どもの頃の私の写真にきわめて近かった。顔の造作はもとより、表情筋の使い方や身体の筋肉の使い方……。
私はこれまで、己はずっとそんな姿だと信じていたのではないだろうか。記憶にある像と一致した感覚がない、小学校から大学院生あたりまでについても、そうだと思いこんでいたような気がする。
写真に違和感をおぼえてから、気持ち悪くてしかたがなくて、何日も何日も、そのころ私がどんな姿をしていたのか、ありったけの記憶をかき集めてみたのだけど、どうやら本当のところは、小学校から大学院生あたりまでの記憶には、私の像に関する部分がすっぽり抜け落ちているらしいことしか分からなかった。
思い出そうとしても、そこには靄がかかっていて、その頃本当はどういう姿をしていたのか、正確なところをほとんど思い出すことができないのだ。多分、思い出すことができないことを自覚しないまま、己の記憶の中の、保育園に通っていた頃の自分の像を、そのまま己の像だと信じることになったのだと思う。
ところで、大学院生以降、現在までの写真には、奇妙な感覚はほとんどない。というのは、それ以降の写真は、私がそうと信じていた、保育園に通っていた頃の自分の姿がそのまま現れているから。最近の写真の中の私は、私の記憶の中の像と同じような顔(表情も含めて)をしているから。だからこそよけいに、小学校から大学院生あたりまでの写真に対して、別人の写真とそっくりそのまま入れ替わっているような、奇妙な感覚を抱くのであって……。
そういえば、己の顔について奇妙な感覚を伴う期間は、私が病的な精神状態にあった時期と一致している。もしかしたら話はもっともっと単純で、思春期の人間にありがちな混乱がもたらした結果なのかもしれない。思春期の人間には特有のアレさがあるから。この話はまた今度。
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