んーと、摂食障害の話で思い出したんだけど。このへん↓読んでて。
自分で、好きで、そうしてて。私は、肥満していた当時、自分で、好きでそうして、そうしてたっけ?そ、そうし、そうしていたっけ?そうしていたっけ?私はそんなこと全然、全然そんなことなくて、毎日毎日何をどれだけ食べたらいいか解らない、食事の適正な量も解らないし、満腹感も空腹感も解らず、ただ、何かあれば食べることでしか何かを収めていけなくてそうしていただけだった。そうして、その「何か」は太っていることが原因でも起こっていたし、それで余計食べた。ただひたすらに、解らなかった。そしてそれ以外の選択肢が自分に有ったかどうかも今ですら解らない、それなのに。
その言葉はまるで自分に向けられているように聞こえるから - うどんこ天気
触れられている内容は直接関係ないかもだけどね、このへん、なんとなく、風穴だ、と思った。バラエティに出ていた女性が摂食障害であるかどうかも分からないし、リンク先の nitino さんの摂食障害の原因も知らないので、単純に「摂食障害」というキーワードからふと思いついたことを羅列しただけです。
なんかいろんなとこで書いてるから知ってる人もいるかもなんだけど、僕もいわゆる摂食障害てやつで拒食にも過食にもなったし嘔吐も繰り返した。入院を勧められたこともあった。結果的に入院まではしていないが。主治医が強制的に入院させるほどではなかった。一刻を争う状況ではなく教育的な意味合いで勧められたのだと思う。
そのような経験のない人から見れば、馬鹿だとか頭おかしいとか行動が異常だとか思われるのはわかっているので実生活では隠している。どこまでうまく隠せているかは分からないが。もしかしたらばれているのかもしれないが誰も触れないから自分も触れないことにしている。
なんで拒食になったのかは忘れた。多分身体的なコンプレックスの発露か、無意識のうちに誰かに気づいて欲しかったのが行動として表れたのだと解釈している。緩慢な自殺だったとは思っていない。当時の僕は生に執着していた。
過食を繰り返していた理由はよく分かるし、今もそれが疼くことがある。食べたり飲んだりするだけでは満たされない渇き、誰かと繋がることでも満たされない渇き、のようなものが腹の中でざわざわするのを感じることがある。多分これは孤独の根源とでも呼ぶべきもので、自分で満たすことなくては絶対に満たされない渇きで、感覚的には身体の深い深いところに大きな風穴が空いているような、そんな感じだ。
あくまでも感覚的なものだから物理的な行為では埋められないことは知っている。しかし埋めなくてはおれなくなる。ただその風穴を埋めるべくひたすらに食物をつっこむのだ。無我夢中でつっこんでいるうちは風穴の存在を一時的に感じなくて済む。我に返った瞬間に風穴の存在感が蘇る。風穴の存在が埋まらないことを分かっていながら行為を繰り返し、我に返ったときに気持ち悪くなって吐く。ただそれの繰り返しだ。
僕の場合、この風穴は己の存在の連続性の不確かさに起因していることは分かっている。己の記憶が最も当てにならない。己の足跡ほど不確実なものはない。己がこれまで連続であったこと、これからも連続であることに対する保障などどこにもない。己の存在の己の礎たるものが一秒後に足元から崩壊する可能性がいつも頭の片隅にちらついていて、ふと気づいたときエアポケットのようなところに落ち込んでいるのだ。
世の中の多くの人の意識にも、こういう風穴的なものは必ず存在して、表立ったものはコンプレックスとかトラウマとか呼ばれているのだろうけど、わけも分からないうちにいつの間にかなんとなく空いていて、存在感だけはやたらに大きい風穴もあって、その正体さえ分からずにただただ風穴が存在する気持ち悪さばかりが意識を蝕むことがあって、気持ち悪さに苛まれているだけではいつかおかしくなるから、何らかの形で対処しようとする。
対処は、意識的にやる場合と、無意識的にやってしまう場合があるけど、意識的か無意識的かはあまり問題ではなくて、対処の形式が多分問題で。人生的に有意義な形もしくは社会的に有意義な形でそれをできれば、風穴の存在に苦しめられ続けることなどないのだろうけども、僕はその対処を、はたから見たら下手くそな形でしか取れなかった。下手くそな形でしか取れなかったから、風穴だけでなく自分の取った対処法にまで悩まされた。ただそれだけのことだ。
根本的にどうにかするには風穴をどうにかするしかないわけだが、僕はどうにかする方法は分かっていてもどうにかする方法を実践1 できるとこまで行っていない。自分で取った対処法に悩まされない方法を実践することだけは少しずつはできている。ただそれも姑息的手段に過ぎないし、一歩間違えた場合により危険な対処法23 に走る可能性やそれに対する不安を頭の片隅から消し去ることなどできやしない。
多分理解しろったって理解されないだろうし、むしろ理解を叫ぶことで気持ち悪がる人の方が遙かに多い。そういう意味で僕らは異端だと思う。異端であることで倦厭するような視線を向けられることを是とはしないが、異端であることを理解する義務など誰にもないし、その点はわりと諦めて、日常生活では隠すことに全力をそそいだりする。こういうことをする己の心のありよう自体が差別的であるのかもしれない。そのことに悲しさや怒りを全く覚えない、というわけではない。だけど、まぁ、しかたがない、と、思う。
なんの話だかさっぱりわからんよーになった。
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