某所で人と話していたときに「それってユディットコンプレックスとかなんとか?」と言われ、こんなもんにまで名前がついているのかと、ちょっとずれたところで感心してしまったんだけど、その行動は「ラポゲーム」という名前で呼ばれ、危なっかしい対人関係の方法をもつ人には、名前がつく程度に普遍的に見られる現象らしいことを知る。
言葉をふたつ覚えたのでかしこさが2あがった!……気がする。
もしくは言葉の檻に閉じこめられたか、そのどちらかだな。
それはそうと、専門的な解説はどっか他のところを参照してもらうとして。
ユディットコンプレックス – Wikipedia
「ラポ」ゲーム – はてな匿名ダイアリー
いずれも二重の心理として解説されているのだけど、実際の人間の行動は、二重の心理だけで説明してしまえるほど単純ではなかろうと思うのである。実際、私の見たことのあるその行動と、その行動の裏側にあった心理の文脈を、現在の視点から読んでみたとき、二重どころか三重、四重、私の観察能力及び言語化能力の貧しさゆえに読み切れていない部分が存在する可能性を考慮すると、もっと多重化してこんがらがっていたのではないかと思うのである。
しかし言葉というものは不便なもので、同時に複数の文脈を語ることを得意としていない。本当は絡み合って三次元の網状に広がっている文脈であっても、言葉の特性上一本の線として読み解くことしかできないわけで、まったく困った話である。
閑話休題。
その人の行動は、ある方向からは、ユディットコンプレックス、あるいはラポゲームの文脈で読むことができる。彼女は自分から男性に誘惑(時には性的なニュアンスを含む)をしかけ、相手が乗った時点で、相手の粗をこれでもかというほど探しだし(それは彼女視点の一方的な思いこみや言いがかりを含む)、相手にとってはとても理不尽な形で終わりを告げるくせがあった。彼女はそれを短期間に、何度も何度も、いろんな人間に対して繰り返した。
彼女の行動はどこか復讐的である。ただし彼女はそれを復讐だとは思っていなかった。この部分だけ取れば、ユディットコンプレックスあるいはラポゲームの文脈を読みとることができるのだが、話はそう簡単ではない。
彼女の他の対人関係に視線を向けると、他の複合的な要素が見える。
安全牌しか愛せない女
先に挙げたような理不尽な別れを短期間に繰り返すようになる前、彼女は立場的に恋愛関係に踏み込むことが絶対にあり得ない相手(例、教師、親子ほど年齢の離れた人間、等)にしか恋愛感情を抱けなかった時期があった。
彼女は愛情を注がれることを欲しながらも、相手の欲求、ことさら性的な視線を向けられることを嫌悪していた。彼女はその視線を、搾取する者(つまり加害を企てる者)の視線だとしか思えなかったからだ。
立場的に恋愛関係に踏み込むことがあり得ない相手であれば、安全な形で愛情(それはあくまでごく普通の人間的なやりとりであり、愛情と感じたのは彼女の錯覚による部分が大きい)を受け取ることが可能だった。また、彼女が好意的な態度を表面に出して接触したとしても、個人的な関係を結ぶことは絶対にないことが、立場的に保証されていた。
さらに、拒絶された場合にも「立場的な問題があるからだ」という理由づけにより、傷つかなくて済むという利点もあった。
彼女が欲していたのは、自分に都合のよい形、つまり彼女が安全と考える形で一方的に与えられる愛情だった。また、都合のよい形で自分の好意を向けられる相手でもあった。この時期の彼女は、相手を人格のある個人としては見ていなかった。理不尽な別れを繰り返していた時期も同じく、相手を人格のある個人としては見ていなかった。
無論、当時の彼女には、ここに述べたような自覚は全くなかったことをつけくわえておく。
自己評価が極端に低い女
彼女の自己評価が酷く低かったという事実を話しておく。
彼女には、人から褒められたり認められたりした記憶がほとんどなかった。字の覚えがかなり早く、成績はずっとよかったが、周囲の人間にとってそれはごく当たり前のことだったし、取り立てて褒めるほどのことではなかったらしい。それ以外には、彼女に特筆すべき取り柄はなかった。
また、彼女は外見的なコンプレックスを抱えていた。美人と言える顔ではない。良くも悪くも十人並みだった。運動は苦手で、それなのに幼い頃から他人より一回り大きい子どもだった。母親は時に揶揄的に、母親の少女時代と彼女を比較して「デブでブス」と評したし、彼女はだんだん自分はデブでブスであり、ぞんざいに扱われることが当たり前の存在であると自覚するようになった。
そのことは、学校内でのヒエラルキーにも悪影響を与えた。彼女の小中学校時代の記憶に、楽しい記憶はほとんどない。小学校時代の最初の記憶が、下校時に同学年の男子に転ばされ、蹴られ続ける映像であり、その後の記憶も、集団で囲まれて殴られ蹴られする映像と音声がほとんどを占めている。
彼女は何度かは状況を変えようとした。両親と教師に相談したが、彼らはやられたらやりかえせと言うだけだった。彼女は言われたとおりにやり返した。何も変わらなかった。そして相談することも、抵抗することも、何の役にも立たないことを学習した。
彼女はいつの間にか、人形になって全てをやり過ごすことを覚えた。その最中ずっと、人形でいる自分を、天井の位置からぼーっと眺めるだけになった。眺めていれば痛みを感じなくてよかった。彼女が人形の彼女に視線を向けるたびに、人形の彼女は天井の位置の彼女を睨みつけたが、彼女は自分を睨みつけているのは誰だろう、何故そこにいるのだろうと、不思議に思うだけだった。身体に傷や痣は残ることはあまりなかったから、人形の中に戻ったとき、身体の痛みもこころの痛みも、いじめという行為自体も、彼女は全部をなかったことにできた。
中学校にあがると、いじめの中に、成績に対するあからさまなやっかみと性的なものが加わるようになる。彼女はずっとキープしてきた成績を、テストで手を抜いたり宿題を提出しなかったりという方法で、意図的に落とすようになった。それでもいじめられることには変わりがなかった。いじめの理由が他の理由に変わるだけだった。
また、性的な要素が加わったことで、彼女は自分の性別を憎むようになり、初潮が来たとき、心底自分自身と外側の世界に絶望することになる。彼女が過食嘔吐を繰り返すようになったのはこの時期からだ。それは10年以上経つ現在も完治せず、いまだに尾を引いている。
自分を商品だと考えていた女
話は理不尽な別れを繰り返していたことに戻る(時間的には進む)が、彼女が異性相手に誘惑をしかける目的はもうひとつあった。
いじめの中に性的なものが加わることで、彼女が間違えて学習したことがある。それは「どんなにどうしようもない女であっても、女は女である時点で、性的には価値を持つ」ということだった。
実際、いじめのある環境を脱した後、恋愛感情的な匂い、酷いときはあからさまに性的な誘惑をちらつかせるだけで、わりと簡単に異性を釣れた。客観的に見れば、彼女が釣り上げたと思っていた異性は、彼女の誘惑に釣られたのではなく、他の部分に惹かれて近づいてきた可能性もあるのだが、彼女は、他人が彼女の他の部分に惹かれることなど絶対にあり得ないと考えていたし、性的なものを目当てに近寄ってきたようにしか見えなかった。
そうやって、性を対価として与える可能性をちらつかせることで、彼女は束の間の感情の交流を買えることを、やっぱり間違って学習した。相手が彼女を褒めたり、認めるような発言をしても、彼女の自己評価はいっこうに低いままだった。彼女は、自分が価値のない人間だと思いこんでいたせいで、相手が自分自身を見ているということにずっと気づけなかった。自分自身は誰にも省みられないと信じていた。
彼女はそのうち、相手が自分の中にどういう存在を求めているかに関心を持つようになり、相手を観察し、相手の望む存在を演じることで、相手の歓心を買うことに満足を覚えるようになった。相手に都合のいい道具として自分を提供すれば、相手の歓心を買うことができて、そのときだけ自分の価値を実感することができる。彼女が異性相手に誘惑を繰り返した目的のひとつがそれだった。
しかし彼女は、相手が自分自身を望んではいないとも思っていた。相手が、鏡である彼女に映し出された自身の欲望を貪っているだけにしか見えなかったからだ。彼女が自分という商品を提供しても、相手はなにも返してくれない不公平感。その思いが肥大したとき、相手は彼女にとって搾取者でしかなくなった。それをすっぱり切ることを、彼女はまったくためらわなかった。その瞬間、彼女は、自分が被害者だと信じていたから、ためらう理由など存在しなかった。
餓鬼道を歩いた女
「自分は女という点でしか価値がない」と信じていた頃の彼女がたどった道は、たとえていうなら餓鬼道だ。餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうという。けっして満たされることがない、ひたすらに飢えるだけの世界だ。
彼女は異性を誘惑することで、「自分は女という点では価値がある」「どういう形であれ相手に求められている」という満足を得ることができた。しかしその後、彼女は必ず「異性は結局、性的な面でしか自分に価値を見いださない」「自分は相手の欲望を映し出す鏡でしかない」「それ以外の面では自分にはまったく価値がない」という、絶望的な世界観を強化した。そしてその度に、一方的で相手に理不尽な別れ方を繰り返した。
その行為がなにも生まず、相手も自分も傷つけるだけだと分かっているくせに、彼女はその行動を繰り返さざるを得なかった。何もしないことは、そのまま無価値な自分に直面し続けることだったから。偽の満足を得ることで一時的に苦痛を和らげた。それは常習性のあるドラッグのようなものだ。
安全な居場所を欲しがっていた女
後になって、彼女はずっと欲していたものを、はっきりと言葉にできるようになる。
「私は、たとえばお釈迦さまや観音さまのような、けっして人から奪うことをしない、安全な存在の足元で、穏やかな気持ちで、ゆっくりと身体を休めたかっただけなのです」
それは、迷走し傷つけあい、回り道を繰り返して足掻いたくせに、安全牌にしか恋愛感情を持てなかった時点から全く成長できていない自分自身から逃げられなくなったし、逃げる必要もなくなり、やっと向き合いはじめたということでもある。
異性を誘惑する行動の、表面上の動機に隠れて奥深くに埋まっていたものは、彼女にとって安全な居場所を確保すること。ただし、誘惑が成功した場合、安全な居場所を得ることには失敗する。誘惑が成功することはすなわち、相手が搾取者になる恐れを常に含むからだ。一方で、誘惑を完全に拒絶された場合、同様に安全な居場所は得られない。他者に拒絶されることは、彼女の人格を全て拒絶されるのと同義だからだ。
彼女が本当に必要としていたのは、誘惑に乗るでもなく、完全に拒絶するでもない、足場にほとんど余裕のないギリギリのライン上を歩ける人間だった。このラインを示されることなくしては、彼女は餓鬼道から抜け出せなかった。また、このラインを他人から示されたとしても、彼女自身がそれを保ち続ける努力をしない限り、多くの人間と関わっても、多くの友人を持っても、多くの恋愛経験を積んでも、その先結婚して子どもを持ったとしても、それでも彼女は抜け出せなかった、と、思う。
この先、彼女はこのまま抜け出せるかもしれないし、もしかしたら再び餓鬼道に落ちることになるかもしれない。私は彼女が再びそうならないように願うばかりである。
最後に、私は、彼女のたどってきた道を否定はしないが、彼女の対人関係の方法は望ましいものだとは思っていない。むしろ、あってはならない悲しい形だと思っている。
どうでもいいはなし
本題とはあまり関係ない余談。
誘惑に乗るでもなく、完全に拒絶するでもない、足場にほとんど余裕のないギリギリのラインを示した人は、彼女に嘘はつかなかった。しかしある点では隠し事を続けていると、彼女は確信している。
しかし、そのラインを保つ努力のひとつとして、お互いに嘘はつかないという暗黙の了解が存在しているから、彼女はその人がしている隠し事に気づいていないふりを貫くだろうし、追及することもしないだろう。疑念に振り回されることはギリギリの綱渡りを失敗させる原因になりかねないし、第一、キツネとタヌキの化かしあいは、最初にしっぽをつかまれて、腹を見せざるを得なくなった方の負けだから。
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