ここ最近、なにかに取り憑かれたかのように読書をしていて、ひとつ気づいたことがある。
どうやら私は、自分の中に既に「体験・観察の蓄積」もしくは「解釈のための物語の蓄積」があるもの以外は、想像力がまったく働かなくて書かれていることを理解できないらしい。まったくというのは言い過ぎかもしれないが、そんな感がある。
非常に分かりにくい例えで申し訳ないのだが、中井久夫の著書で言えば「徴候・記憶・外傷」は大部分を理解できるけど、「最終講義」は大部分を理解できない。
もちろん、文字や文章としては理解できるし、そういうものがあるというのも理解できるんだけど、「腑に落ちる」という現象が起こらないので、どこか座りの悪い感じの気持ち悪さが生じるのである。
上に挙げた2冊の本を読んだことのない人は、多分なんのこっちゃわからないと思うので補足すると、「徴候・記憶・外傷」はページの多くを PTSD やストレス性の疾患に割いた本で、「最終講義」はサブタイトルの「分裂病私見」が示すように、精神分裂病(統合失調症に改称されている)についての本である。両者とも症例の呈示は少なく、著者が日々の診療の中で受ける「感じ」的なものを主に書いている。
前者に関して、私は既にこれらについて何冊も本を読んでいたし、自分が治療を受けた体験1 の蓄積があったし、治療を受けた体験を客観的な目線で言葉に出来る状態であった。また、PTSD やストレス性のものについては、ネットに当事者目線の体験談がいくらでも転がっている。当事者と多少やりとりしたこともある。そういうこともあり、比較的容易にイメージを描くことができたのである。
しかし後者に関してはそうはいかなかった。理由は前者のものと真逆であり、身近にサンプルケースが転がっていないから、容易にイメージを描くことができないのである。恐怖や妄想に関しては、自分自身が恐怖に駆られて妄想的な考えに逃げ込んだこともあったし、ごく身近に被害妄想ぽい訴えをする人間がいたこともあって、多少はイメージできるのだが、それ以外の部分についてはイメージを描くことが非常に困難だった。
イメージが困難な状況に陥ると、その文章が意味を持たない文字の羅列に見えてくることもあるので、たいへん恐ろしい。ああゲシュタルト崩壊(←ちょっと違う
で、こういうことに気づいて、私は、なにかを読んだり観察したりするときに、「体験・観察の蓄積」もしくは「解釈のための物語の蓄積」、つまり既に形成されているパターンを対象に適用することで、対象を認識しているらしい、と思ったのである。パターンが形成されていない対象や、既に形成されているパターンと相反する対象について、酷く理解しがたいと思うのも多分そういうことなのだろう。2
だから何だと言われれば、ただそれだけのことで多分ごく当たり前のことなんだけど、パターンが形成されていない対象に対する、びっくりするほどの理解力のなさに、ああー、とため息をついているところなのであるよ!
ついでに、既に形成されているパターンに合うように解釈しがちな傾向があるというのも、ちゃんと自覚しておかないと、いつかとんでもない間違いをやらかすような気がするよ!




