お前はまだたかだか三十路のくせになにを言っているんだと思われるかもしれないが、私はブログをネット上の私の墓標として残したい。できれば私が死んでから50年くらいは、電子の海に漂っていてもらいたい。
現在このブログは有料のレンタルサーバーを使ってやっているので、私が死んで、料金の払い込みがなくなれば、これは消えてしまう。ということに最近気づいて恐ろしくなってしまったので、容量が大きくて平均寿命までのあと50年+私の死後50年残っていそうな無料ブログサービスを探している。
候補として考えているのは、とりあえず画像は全部Flickrに移動して、テキストはBloggerあたりに移動して、ミラーサイトを作っておくのがよいと思う。FlickrはYahoo.com、BloggerはGoogleのサービスなので潰れるリスクは比較的低いと思う。多分。低くないと困る。(いろいろ書いたけどまだ未定だ)
Personality Based on Memory or Record
私は多分、人より、自分の書いた文章とか、そういうものに対するこだわりというか執着が強いと思う。
上の見出しがすべてだけど。
私の人格、というか、私という個は、多分私の頭の中にある記憶でできているから、で、記憶を語る、もしくは非言語的にアウトプットすることで私はそこに私として存在するから。この間、書いたことを引用する。
今ここでこれを書いている私という人間が、ここに突然放り出されてしまったような心細さを感じたりする。今の私について、連続的な記録が(もしくは記憶が)、つまり歴史による存在の裏付けのようなものがまったくないという心細さだと思う。多分これは何年か前から言ってたと思うけど、人格ってやつは多分記憶からできていて、記憶の確からしさに自信を持てないというのは、多分そのことだけで自身の存在の確実性に影を落とす。
三十路になって考える – Spherical-moss.net
私は忘れてしまうことを恐れる。同時に、私が忘れなくても、私が語れなくなることを恐れる。アウトプットできなくなることを恐れる。私の死というものは、私の記憶の語り手としての私が消えることを意味する。いや、死ななくても、私が、私の記憶やそれに類するものを非言語的な形を含めてアウトプットできなくなった時点で、語り手としての私は消える。
死ぬということは、私にとっての世界の終わりを意味する。だって多分、死んだらなにも感じないのだから、世界があってもなくてもたいした違いはない。死を迎えた後の私にとっては。
けどさ、私が死んだ時点で、私にとっては世界は終わるかもしれないけど、他の人は同時に消えるわけじゃないし。私の身近なところで人が亡くなったとき、その人は物理的な存在としてはいなくなったし、同時にその人にとっての世界は終わっちゃったと思う。でも、私の世界は終わってない。だから私が死ぬときも、やっぱり他の人にとっての世界は継続しているし、世界というものの存在自体がなくなるわけじゃない。
で、その世界の中で、今これを書いている「私」が物言わぬ存在になっても、私は、私という存在を継続させたいのね。馬鹿馬鹿しい妄想かもしれないけど。
私は、私がなくなるとか、そういうのってなんかすっごい嫌だ。私の外側を認識して、外側を介して私の内側を認識して、そうやって記憶を蓄積する主体としての私、つまり私の人格そのものが、私の死とともに消えることはどうしようもないことだろうし、それは受け入れるしかないことだ。
でもさ、記憶の語り手としての私を、せめて何らかの記録という形で、残してやりたいとか思う。だから、ブログを墓標にしたいとか、そういうことを考えている。
あんた、どれだけ自分好きなんだよ、っていう話だけど。でもしかたないじゃん。私はすっげえ私が好きだし、私の生きているこの世界も好きだし、本当は、手に入れた記憶の一欠片もなくしたくないと思ってる。
でも、私が残せるものって言ったら、私が自分にインプットしたすべてのもののうち、五感を使って感覚として描き出した一部の、さらにそのうち言葉や絵や、なんかそういう、形にできる媒体を介して表現した、ごくごくわずかのものしかない。記憶の一欠片もなくしたくないという願いに対して、ほんのわずかなものしか残せない。あまりわずかすぎて笑っちゃうくらい。
Afraid of Sleep
どうしてここまで、いつかくる死のことばかり考えているのか。時々馬鹿みたいだと感じる。
私は私という存在に、私という生に、酷く執着している。前にも書いたけど、私は生きていたいし、生きていることに満足している。それ以外に、あんまりがつがつとした欲求がない。だから、今ある満足を取り上げられるのが酷く嫌なのだと思う。だからそれを取り上げるいちばん確実な存在、つまりいつか来る私の死、今のところそいつが最大の恐怖なんだと思う。
だから時々、眠るのが怖いと感じる。多分、死の間際に、私は私の意識を永久に手放すだろう。眠るという行為は、私が私の意識を、一時的であれ、手放すということだ。時々それが酷く怖い。酷く怖くて眠れないときもある。目を閉じて、意識を手放したら、もう二度と私の意識は私のところに帰ってこないんじゃないかとか、そういう想像が駆けめぐってしまうのだ。目を閉じたら二度と目が覚めない、明日の朝が来ない、そういう想像は酷く怖い。
夜、眠る前、今日、こうやって眠る直前までの、一分一秒が本当はとてもとても貴重で、明日また得られる保証がまったくないものだったのに、と、とても苦くてきゅうと胸が痛むような、そういう風味の後悔に駆られる。
目を閉じたら二度と朝が来ないかもしれないけど、目を閉じなくても朝は来ないかもしれないし、目を閉じないと朝が来ないかもしれないという、期待と恐ろしさの混じったような気持ちで目を閉じる。
おやすみなさい。
明日の朝がちゃんと来ますように。
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