Amazon: 風紋〈上〉 (双葉文庫)
乃南アサの小説には「どろり。」という擬音がよく似合う。頭の中で、やたらに粘度が高くて生々しい温度——人肌ぐらいの——をもつ液体が、どろり。どろり。と這いずり回る vision が見えるのだ。ときどき、「ごぼっ。」とたかぶる音も聞こえる。
私は、そういう風に思っている。
私はミステリの方から著者の作品に入ったけど、この人の作品の魅力は、ミステリの謎解きそれ自体よりも、「どろり。」とした心理描写にあると思っている。そして、本作品にはそれがよく出ていると思う。
上下巻にわたる大作の上、犯罪被害者の生活に焦点を当てた決して軽くない内容のため、読むには多少の覚悟が必要である。でも、いろんなことを考えさせ、訴えかけてくる作品なので、たくさんの人に読まれてほしいと思うし、「被害者学」という言葉も、もっと知られてほしいと思う。
本作は殺人事件を扱った小説ではあるけれど、ミステリではない。謎解きの要素はあまりない。描かれているのは「一般家庭の主婦が刺殺される」という殺人事件。そこに謎があるわけはもなく、容疑者はすぐに逮捕される。この作品は、殺人事件が引き起こした、被害者の遺族や加害者の家族の周辺に、事件前に存在したものが目に見えて崩壊していく様子、崩壊から立ち直ろうとする様子、そういうものが丁寧に丁寧に描かれている。
著者が描きたかった内容は、文庫のカバーの裏表紙の言葉に凝縮されている。
犯罪被害者に限定して言えば、事件の加害者となった人間以外は全て、被害者になってしまうのではないかと、私はそんなふうに考えている。そして、その爆風とも言える影響が、果たしてどこまで広がるものか、どのように人の人生を狂わすものかを考えたかった。
この小説を書いている間にも、世間では実に様々な事件が起きた。そして、その都度、容疑者については様々な記事が出た。被害者は、遺族は、常に置いてけぼりを食らうのである。運命を狂わされ、心に癒し様のない傷を負った人たちを救う手だては、現在のところ皆無と言って良いと思う。
上巻では被害者が刺殺され、容疑者が逮捕され、検察に送致され、裁判が始まるまでの出来事が描かれている。下巻では、裁判が始まり、被告が無実を主張するして全面的に争うも、検察の努力により懲役刑が確定するまでが描かれている。
その中で私は、「どろり。」という音を何度も聞いた。
本作品に登場する人物は皆、そこらへんにいる普通の人だった。被害者は、多少家庭内に問題があるとは言え、ごくごく普通の家庭の主婦である。夫は、仕事やゴルフであまり家庭を省みず、休日も平気で家を空けたりする、そういう人物である。上の娘は浪人生で、怒鳴り散らしたり帰宅が遅かったりと、素行に問題がある。下の娘は、私立女子高に通い、高校生らしく友達と寄り道したり、家庭の問題に胸を痛めていたりする。
一方の加害者も、ごく普通に仕事をし、家庭を持っている男性だった。加害者の妻は、幼稚園に通う年齢の息子と、赤ちゃんと呼べる年齢の娘を連れて、公園でママ友と井戸端会議をするような、どこにでもいる専業主婦だった。
そんな普通さが、一件の殺人事件で、全て壊れてしまう。
事件発覚直後から、被害者の周辺、加害者の周辺に押し寄せるマスコミ。必死で事件を洗い、ときどき強引とも取れる捜査をする警察関係者。マスコミ報道を受けて、被害者に同情しつつも、心の奥底の好奇心を隠しきれない近所の人たち。事件前に加害者の妻に対して感じていたささやかな反感を、事件を機に噴出させるママ友たち。さらに、周辺住民の視線を敏感に感じ取り、それぞれが利害を露わにする、被害者の親族、そして加害者の親族……。
様々な人々の思惑や動きを、それぞれの視点から描いていて、全てが絡み合って複雑で重苦しい人間模様を形成しているのだが、その中で、すでにこの世にいない被害者の時間だけは凍結している。
また、被害者の遺族には、充分なケアはなされない。遺族のいちばんの望みは、被害者が殺されず、生きていることである。そして、それまでの生活が、平凡なまま営まれることである。しかし殺されてしまった後にそれを取り返すことはできず、よくてお金で解決されるだけ1 である。その上、マスコミにはプライバシーを暴かれ、酷いときには推測のみで「あることないこと」どころか「ないことないこと」まで書かれ、心ない人から被害者の落ち度を責める2 嫌がらせをされ、元いた家で暮らせなくなる。裁判が始まり、再び事件に注目が集まると、引っ越し先にまでマスコミがやってくる。
普段、何の気なしにマスコミ報道を眺めているけれど、マスコミ報道は被害者遺族にとっては二次被害のようなものであると、感じた。「知る権利」は簡単に主張されるけど、それはただでさえ傷ついている被害者遺族の生活の平穏さを犠牲にしてまで追求されなければならないものなのだろうか。多分そうではない。誰かの権利が行使されるために、その人より弱い立場の誰かが犠牲になることは、あってはならない。
そんな中で、遺族の三人が、反発しあいながら、それでも肩を寄せ合って家族を再生していく姿は、踏まれても踏まれても伸びようとする雑草のようだ。また、三人が現実に適応していく手段や態度は三者三様で、とても丁寧に描かれていたから、これは現実に起こった事件なのではないかと、時々錯覚させられた。事件前までは荒れていた上の娘が事件を機に更正し母親のように振る舞う姿や、それまでは母親を支えるよい娘だった下の娘が事件の衝撃を受け止めきれずに精神に変調をきたす姿、しかしそこから立ち直ろうとする姿が、妙に対照的で鮮やかだった。同時に、力強くしたたかで、小説の中なのに「この人たちは確かにどこかで生きている」と感じた。常に無難に、世間様から見た良い夫を演じようとする彼女らの父親の姿勢に、影の薄さや、はかなさを感じてしまうのとは大違いである。
対照的な立場にある加害者の妻も、二人の娘と同様に「生きていた」。夫が殺人事件の容疑者として逮捕され、マスコミにあることないこと書かれ3 、近所や親族からは白い目で見られ、ついには元いた家で暮らせなくなり、実の親や兄弟からは「あんな男と結婚したせいで」などと、どうしようもないことで責められて、行き場をなくす。事件前までは平凡で柔らかくて、事件直後は一人では生きていけないのではないかと思わせるような様子だった加害者の妻は、だんだんとしたたかになり、タフでいることを受け入れるようになり、それまでしたことがなかったような仕事をしてでも、とにかく生きて前に進もうとする。
この人の作品は、いつだって女が強くてしたたかで生々しくて「どろり。」としているのだ。
そういえば、この作品では取り調べや裁判で主役になる加害者については、意外なほどに描写が少なく、描写されていても、誰かの目を通した描写でしかない。そのことに少し拍子抜けしたような感じを覚えたが、よくよく考えてみれば、現実世界で報道されている事件の加害者像だって、報道の目を通した像でしかないじゃないか。現実世界では、被害者だって、被害者の遺族だって、そうなのだ。報道の目を通した像でしかない。ほんとうのことは誰も知らない。
この作品には、裁判が結審するまでずっと被害者遺族の側に立とうとする、ひとりの新聞記者の姿がある。彼はいつも良心的に、ほんとうのところを知ろうとしていた。世間に対してほんとうのところを伝えたり、被害者遺族や加害者家族が世間に対してほんとうのところを伝えたいと思ったときに場所を用意できるのは、今のところ彼のようなマスコミだけ4 である。なので、願わくば誇張したり脚色したり想像で話をでっちあげたりすることなく、ほんとうのところをほんとうのまま、伝えて欲しいと思う。
この作品の続編に「晩鐘」があり、そちらでは事件関係者の7年後が描かれている。今読んでいるところ。こちらはこちらで、違った種類の重さがある。
Footnotes
行頭の数字は本文中の注釈番号に対応さしてます。
- 作品中で犯罪被害者及びその家族・遺族が受けられる公的な援助や、可能な賠償請求などが説明されている。 Back
- ここでは「落ち度」と書いたけど、被害者が多少うかつな行動をしていたとしても、殺されていい理由なんかどこにも存在しないので、落ち度を責めるのは筋違いであると思う Back
- この作品を読んで思ったのは、マスコミにプライバシーをよりえげつなく暴かれるのは、加害者の家族ではなく、被害者とその家族である Back
- 最近はネットで訴えるという手段もあるにはあるが、強く興味を持っている人しか見ないのが現状で、従来からある媒体の伝播力に比べるとまだまだである。 Back
Twitterで
つぶやいてみる?
関連記事:こちらも一緒にどうぞ☆
Comments:0
Trackbacks:0
- Trackback URL







